課長職にマネジメントの革新を!
RSS

御木本幸吉、養殖真珠への挑戦

御木本幸吉、養殖真珠への挑戦

(2011年6月 7日更新)

 
  • はてなブックマーク
  • Yahoo!ブックマーク
  • Check

養殖真珠に身を投じて成功を収めた“真珠王” 御木本幸吉。成功を収めた要因は何だったのであろうか。その背景に迫る。

 

*  *  *

 

明治末期から大正初期にかけて三度内閣を率いた桂太郎と、蔵相、農水相を務めた曽禰荒助が、御木本幸吉を交えて会食をしたとき、曽禰が御木本をふりかえってこう言った。「この御木本という男も、大風呂敷さえひろげなければ、実にいい男なのだが」

すると、桂が、「しかし、それを取ってしまったら、この男に何が残るのだ」と言って大笑いしたという。

たしかに、“真珠王”と称し、「国定教科書に載るような人物になる」「世界中の女性の首を真珠で締めてご覧に入れる」といったセリフが示すように、大言壮語は御木本の代名詞だった。しかし、口から飛び出た言葉に忠実に、彼はその生涯を真珠に託し精進し続けた。

真珠に対して特別な知識がなかったにもかかわらず、養殖真珠に身を投じて成功を収めた要因は何だったのであろうか。

  

発明を志すということ

 

御木本幸吉の人生を眺めると、その輝かしい成功が何がしか最初から仕組まれていた一つのドラマのように感じられる。天職に巡り会えた運命の不可思議なのか。あるいは、「天の時・地の利」といった好条件が、あまりにも見事に融合されていた印象からくるのかもしれない。

 

御木本が養殖真珠を自分の仕事とするまでの経緯は、彼が置かれた環境と彼の身体に宿っていたDNAが時間とともに作用し合っていった結果といってよいだろう。

 

御木本が鳥羽に生まれたことは地の利の最たるものである。鳥羽に生まれなくして真珠には出会えない。そして志摩の国鳥羽の歴史と風土も、御木本の人格に大きな影響を与えた。

 

戦国期、鳥羽を治めていた九鬼嘉隆は、織田信長の配下にあって水軍を率いる勇将であった。志摩の国は平野に乏しく、農業に適するところではない。しかしその一方で、海の幸にはことのほか恵まれていた。そうした地勢的な条件から、嘉隆は海の利を水軍という軍事力で、市井の人びとは海の幸を産業として都市を栄えさせてきた。

 

こうした志摩の国のことや嘉隆の活躍を、御木本は祖父の吉蔵から幾度となく聞かされていたという。郷土人としてのDNAの刷り込みといってよい。また、まさに血筋として強いDNAを御木本は受け継いでいた。うどん屋「阿波幸」が御木本家の家業であったが、吉蔵はこの家業のほか、伝馬船を数艘持ち、青物や米・薪・炭を扱う名うての商売人だった。吉蔵のやり方は、客の人別帳をつくり、そこに配達記録を記入して、次の注文を受ける前に荷を届けるという抜け目のない商法だったから、“うしろに目があるような男”という異名をとっていた。マーケティングの達人だったのである。

 

一方、父の音吉は商人としての才はなく家産を減らしたが、一方では、機械器具の改良に関心を持ち、発明家としての資質があった。労力を要するうどんの粉挽き作業を慮って、楽に挽ける粉挽機を発明し、その功績で県の表彰を受けた。つまり、御木本は祖父の商人感覚と父の優れた発明家気質のDNAをともに受け継いでいたのである。

 

敏感に機運を読む

 

御木本は、十二歳のときに鳥羽の金満家二人の名を挙げ、「一生涯中には、せめてその次の鳥羽で三番目の金持ちになりたい」と語るほど野心旺盛な少年だった。またそのために積極的に行動することを厭わなかった。

――うどん屋だけではお金持ちにはなれない。

家業を手伝いつつ、そう考えた彼は青物の行商をはじめる。早朝に起きて青物商の仕入れと販売、そして昼からうどんの粉挽き、営業と、連日夜まで働いた。若い身体にもつらい労働だったに違いない。しかし、そうした苦労の甲斐あって、・少年八百屋・として次第に評判になっていった。

 

十八歳まで青物商を続けたが、利幅の薄い商いで、金満家になるには道はほど遠いと見切りをつけた。

 

次に手を染めた新しい商売は米穀商である。升で売る零細な小売りからはじめ、努力して俵で売るほどに扱いを大きくしたが、そこでもまた限界を悟った。いくら働いても資本が足らない上、元来志摩地方は米作農村が少なく、扱いをふやすには無理があったのである。

 

折しも家督を譲られた御木本は一から出直そうと考えた。

 

そして、天のときといえる機運は唐突にやってきた。明治10(1877)年1月、神武天皇陵親拝および孝明天皇式年祭のため、航路、横浜港から大和をめざして出航した明治天皇の船が、暴風に遭い、にわかに鳥羽に上陸することになったのである。わずか三メートル幅の町内の道を、太政大臣三条実美、参議伊藤博文ら高官を従えていく明治天皇の姿を見て、御木本は大きな衝撃を受けた。きらびやかな行列から新しい日本の空気を感じ、その中心は東京にあることを頭に鉄槌を受けたように感じたのである。

 

家督を継いだからには鳥羽を捨てることはできない。しかし、今だからこそ、東京の空気を吸い、新たな商売を模索しておく必要がある――そう考えた御木本は、知人が上京することを知り、父の許しを得て同行する。

 

大きな転機となったのはまさにこのとき、横浜・横須賀を訪れたことにあった。

 

両都市では多くの外国人が駐留しており、彼ら相手の商売が盛んであった。中国人がイリコやアワビ、寒天を大量に買い付けに来ており、西洋人は真珠を宝石として高額で購入していた。そのさまを目撃して、御木本ははっと思い当たった。

 

――これらはすべて志摩の国の産物である。海の国に住む者は海の産物を利用すべきだ。

 

養殖真珠への道

 

御木本は帰郷するとすぐに海産物を扱う商人になった。ただ、このときはまだ真珠に特化はしていない。むしろこの頃奇妙に見えるのは、政治活動を展開することである。二十二歳で町会議員に、二十六歳で三重県勧業諮問委員、翌年には同商法会議員となる。その真意は商売を捨てるということではなかった。むしろ、商売において自分が不利になる部分、すなわち年齢と実績を肩書きによって補おうというしたたかな意図による行動だった。

結婚もたいへん割り切ったものであった。彼はもっとも信頼する町内の五人の教師に相手の選定を依頼し、彼らが推薦する旧藩士の娘を娶った。通常商家ならば商家から嫁を迎える風習であったが、そんな古式にこだわらず、安心して家宰を任せられる教養ある妻を求めたのである。妻うめは御木本にはまたと得がたい良妻であった。

 

さて、数ある海産物の中から真珠に情熱を傾斜させていくのは、英虞湾の天然真珠が母貝であるアコヤ貝の乱獲によって、急激に減少していたことが背景にあった。明治21(1888)年、志摩国海産物改良組合の組合長になっていた御木本は、大日本水産会主催の第二回全国水産品品評会が東京で開催されるにあたって、改良イリコとともに真珠を出品し、真珠は大きな注目を浴びた。

 

その夜、宿から散歩に出て、丸の内を抜けてお堀端に立ったとき、御木本は真珠の産地が長崎の大村湾、能登の七尾湾、そして志摩の英虞湾しかないこと、またアコヤ貝絶滅の危機を思い起こし、「牡蠣が養殖できるのであれば、アコヤ貝も養殖が可能ではないか」という思いがつのった。

 

主宰者である大日本水産会幹事長の柳楢悦が隣国伊勢出身であることをつてに、御木本は早速柳を訪ね、養殖事業の可能性を熱心に提案する。帰郷すると、連日海に小船を漕ぎ出し、海底に杭を打って回り、しゅろ縄を張り巡らしはじめた。地元の人間は口々に、「阿波幸の御木本は狂ったようじゃ」と思ったという。やがて柳も有力な協力者となって志摩を訪れ、その政治力を生かして御木本を応援する。

そして、アコヤ貝の養殖は可能だという見込みを得た。しかし、本当の悩みはそこからだった。御木本さえ当初は、真珠を産むアコヤ貝の数を養殖してふやせばそれでよいと考えていた。しかし、育成にまず四年かかる。しかも天然真珠が採れる確率は千分の一である。これではとても事業にすることはできない。そんななか、先の柳が水産動物学の権威である東京帝国大学の箕作佳吉を紹介してくれた。そしてその箕作から、養殖母貝から偶然産出する真珠を待つのではなく、科学に基づいて確実に真珠を産ませる方法を考えるべきだと示唆された。真珠を産むアコヤ貝の養殖ではなく、真珠そのものを養殖する、このことはいわば、神の創造物といえる真珠を、人の手に及ぶ生産物にしようという、壮大なテーマである。

 

ここに至って御木本は養殖真珠挑戦を決断する。

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


メールマガジン

更新情報をメルマガで!ご登録はこちらからどうぞ