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西山彌太郎の決断~日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設

2015年8月12日更新

西山彌太郎の決断~日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設

日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設。高度成長のパラダイムを生んだ壮大な計画。企業家センスがもたらした西山彌太郎の決断の背景に迫る。

日本の将来は製鉄にある。鉄の大量生産を通して日本経済の発展を図らねばならない――そうした信念のもと、川崎製鉄初代社長に就任した西山彌太郎。

彼のビジョンの実現のために不可欠だったものは、過去に例を見ないものであった。「銑鋼一貫方式の大工場」である。あまりの壮大さゆえに、その計画を暴挙と危惧し、反対する声はいや増しに増す。しかし、西山の決断は揺らぐことはなかった。

千葉製鉄所を成功させ、業界全体の拡大、ひいては日本の高度成長を牽引することになる"川崎パラダイム"の軌跡をたどる。

日銀総裁、通産省への反逆

川崎製鉄(以下、川鉄)社長西山彌太郎が時の大蔵大臣池田勇人を訪ねたのは、昭和二十五(一九五〇)年十月、川崎重工業から分離独立直後のことである。目的は資金であった。西山が企図する年間百万トンの粗鋼を生産する銑鋼一貫工場建設のためには、当時の金額で百六十三億円が必要であり、その半額の八十億円を政府に期待したのである。

西山は池田に、製鉄こそ日本産業の将来を決する鍵であり、この工場は、その発展の夢を実現するための一大方策であることを述べた。聞き終わると池田は笑って、「君のいうとおりだ、しっかりやってくれたまえ」と同意し、国内資金については日本銀行総裁である一万田尚登に依頼することを勧めた。

当時、一万田は戦後のインフレを抑え、逼迫した金融行政を巧みに切り盛りしていた実力から"金融界の法皇"とあだ名されるほどの権勢を誇っていた。一万田と面会した西山は自説をくり返し、自信と期待をもって返事を待った。

ところが、である。沈黙のあと、一万田が放った言葉はすげないものだった。

「君の言う金は大きいな。それをいっぺんにやるのは、ちょっと無理じゃないか」

言葉こそ穏やかだが、それは明確な否定であった。それだけではない。一万田は、

「もし反対したにもかかわらず強行するなら、川鉄千葉にはペンペン草を生やしてみせるぞ」

と息まいたという。西山の計画は法皇の目にはそれほど過激だったのであろう。また西山の建設計画書が通産省の業界施策を逆撫でするものであったのも事実であった。

当時、日本にあった高炉は全国で三十七基だが、操業されているのはわずかに十二基。通産省としては、戦災で傷んだ高炉を修繕し稼動数をふやす方針であるから、新工場の建設は資本の「二重投資」になる。資本金五億円の川鉄がなぜ百六十三億円を投じて工場を建設しようとするのか、理解に苦しんだのである。

西山はいかなる根拠に拠ってこれほどの壮大な計画を描き、その実現に固執したのであろうか。

なぜ銑鋼一貫方式なのか

そもそも日本の鉄鋼生産方式は、二つに分類される。一つは銑鉄をつくり、銑鉄から鋼をつくる、いわゆる銑鋼一貫生産方式。もう一つは、くず鉄を買い入れ、そこに若干の銑鉄を混ぜて鋼をつくるスクラップ製鋼方式である。そして当時、銑鋼一貫生産方式を採用していたのは、日本製鐵が分割して誕生した八幡製鉄、富士製鉄と、新たに高炉を持った日本鋼管の大手三社で、川鉄、住友金属工業、神戸製鋼所といった関西の三社はスクラップ製鋼方式であった。

旧日本製鐵が永らく唯一の銑鋼一貫方式であったのは、官営ゆえに有事の際に、くず鉄や銑鉄の輸入が途絶えるというリスクに備えた、国防上の理由であった。そうした使命を担わない民間鉄鋼会社においては、短期的な利益優先、すなわち自前の銑鉄をつくるよりも、海外から安いくず鉄を輸入したほうが、圧倒的に経済的だとしていたのである。規模もヨーロッパ式の小さいものであった。

しかし、西山の見解は一段違ったところにあった。西山はこう述べている。

「戦前の日本の指導者たちの考え方は、"日本は国が小さい。大きなことをいってもダメだ。小さい機械でヨーロッパ式に、いるだけのものをつくっていこう"というところにあった。したがって、よけいにつくって売り広めようなどという商魂は、毛頭なかったのである。(中略)しかし、戦後は世界情勢もすっかり変わったし、国内事情も変わった。世界は交通機関の発達によって著しく狭くなった。貿易は必ず自由貿易になる運命にある。そうすれば、コストの競争になる。そこで私たちは、製鉄の方式も変えて、大規模生産方式をとり、コストを世界的レベルまで下げるべきである......」(『鉄づくり・会社づくり』)

西山は、戦時中に酷使された炉はガタガタで使用に耐えず、また小規模であることはまぬがれないので、かえってコスト高になると見切っていた。だからこそ今後の世界的競争を予見すれば、銑鋼一貫方式の一大工場は必要不可欠としていたのである。

千葉製鉄所の革新性と産みの苦しみ

しかし、走り出してみると現実は厳しいものであった。工場建設地の選択から苦労の連続で、山口の徳山(現・周南市)、防府と候補地は挙がるがなかなか踏み切れなかった。そんななか、千葉にあった日立航空機跡が土地の広さ、水流もよいとのことでようやく決定。そこに日本最新鋭になるための工夫一切を盛り込み、六十数回の変更を重ねて練り出された計画は、これまでの製鉄所の概念を超えた画期的なものとなった。それは工場内を走る運搬用のレールの長さをくらべるだけでも容易に理解できる。

当時日本最大級の八幡製鉄所の工場内のレールは延長五〇〇キロに及んだ。つまり、工場内のレールに乗れば東京から大阪までの距離を走るに等しいのである。それはそれですごいともてはやされていたものであったが、裏を返せば非効率を示す以外の何ものでもない。

これに対して、川鉄千葉製鉄所のレールの総延長はわずか六〇キロに抑えられた。そのなかに、溶鉱炉、平炉、圧延設備が一気にライン化されている。まさに「毛筋ほどの無駄もない」設備であった。

川鉄千葉の計画は、結果として以降の日本の臨海製鉄所の基本形となり、ひいては世界の製鉄所のレイアウトのプロトタイプになったのである。

さて、通産省の許可は容易に下りなかったが、大臣が替わって昭和二十七(一九五二)年にようやく正式に許可された。一年以上にわたる努力を要したことになる。

いよいよ実現一途となって、西山を悩ませたのはやはり資金問題であった。結局、日銀の支援は即とはいかず、西山は自己資金のみで強引に建設を開始した。幸い労働組合も他社より低い給与にも甘んじて付いていったが、西山にもっとも重責がのしかかった時期であろう。

資金調達のために西山が着目したのは、昭和二十六(一九五一)年に発足したばかりの日本開発銀行(開銀)からの融資と、世界銀行(世銀)からの借款であった。開銀総裁小林中は、「安全確実を優先するなら政府系金融機関などいらない。一万田君が反対しようとかまわない」と言って支援をした。世銀の借款については、融資を申請すれば、世界のライバル企業にも川鉄の目論見が顕になると、反対論もあったが、背に腹は替えられない。世銀の視察団がやってきて千葉製鉄所を見学、そのプランに感心し、借款が決定したという。

西山の壮大な製鉄所はここに順調に拡張され、昭和三十六(一九六一)年には粗鋼六〇〇万トンを生産するに至った。実に、戦前の日本の全生産高に匹敵するものを千葉一工場で実現するようになったわけである。

産業界に与えた影響

千葉製鉄所の完成が、産業界に与えた影響は衝撃的なものであった。ライバルの住友金属も神戸製鋼も大規模設備投資を行なって一貫化を促進した。

なぜか? 川鉄が千葉製鉄所によって銑鋼一貫を実現した以上、長期的見地に立てばスクラップ製鋼に頼っていては、競争に負けることは自明だったからである。

こうして、日本鉄鋼業界は六社による寡占体制を現出し拡大した。それがその他日本の製造業全体、造船・自動車・重電・家庭電器などの成長に多大な貢献をしたことを思えば、その影響は計り知れないほど大きなものだったといえよう。

西山の最大の功績は、日本の経営者全体に、いわば「投資が投資を呼ぶ」ダイナミズムを伝播させたことであった。敗戦処理によって、実業界においても強制的に経営者は交代させられ、託された新世代の経営者もそのほとんどは戦災によって傷んだ設備をなんとか修繕しながら、堅実経営をおずおずとめざす、というのが実情であった。

しかし、確固たる技術と大胆な資金調達によってビッグ・プロジェクトを成し得た西山の経営手法に、多くの経営者や技術者が自信を取り戻したのである。

西山はその後、千葉製鉄所成功の余勢を駆って、新たな大事業、水島製鉄所の建設をめざした。しかし、さしもの剛健な身体も度重なる巨大事業の推進に疲労しきっていたのであろう。水島製鉄所の完成を目前にして、胃癌に倒れる。昭和四十一(一九六六)年八月、闘病一年にして西山はその生涯を閉じた。享年七十三歳であった。

このリーダーゆえにこの決断あり

銑鋼一貫の巨大製鉄所の建設――西山の決断とは、すなわち、この計画の実現すべてと同義だといってもよいだろう。 

西山の人生をふりかえれば、日本の発展を後押ししたこの決断が、掛け値なく天の配剤として生まれてきた感がする。西山はそう思わざるを得ないほど"鉄の申し子"だった。

西山と鉄の出会いは、高等小学校を卒業した十四歳のとき、金物屋をしていた叔父の店の手伝いがきっかけである。たまたま店の景気はことのほかよかった。西山少年は、「金物屋がこれほど儲かるならば、こうして商品を売るより、それをつくるもとである鉄をつくればもっと儲かるはずだ。そのためには勉強しなければならない。学校に行かなければ」と考え、半年足らずで手伝いをやめ、勉強に精を出すことにしたという。

その思いが筋金入りだったのは、東京帝国大学工学部冶金科への入学でも明らかだが、さらに川崎造船所葺合工場を見学する機会を得たことから、卒業論文のテーマも「川崎造船所製鋼工場計画」。英文九五ページに十枚の製図が付いた本格的なものだった。

その序文で西山はこう書いている。

「製鉄と造船は一国の二本柱である。前者は手、後者は足である。したがってこの二つの工業の独立と発展は、わが国の重要政策でなければならぬ。造船を盛んにするには良質の鋼材、とくに鋼板を国産で、しかも輸入品より安価に、供給する必要がある」

西山は、五十年にわたる実業人としての人生を、学生時に描いたこのプロットどおりに歩んだといってよいだろう。

極めつけは、終戦を迎えて、幹部として再建に努力していたときの発言である。

会社の寮で幹部たちが日本の将来を論じていたとき、西山はひとり周囲を鼓舞するように力強く言った。

「われわれは"故郷のあるユダヤ人"になろう。貿易立国によって金持ちの国になり、福祉国家になる。それにはユダヤ人のようにかせぎ、しかも祖国愛を失ってはいけない。重化学工業を以て貿易立国として立つ以外に、武力を失った日本の進むべき道はない」

日本の見事な経済復興は、多くの優秀な政治家、実業家たちが発展へのベクトルを合わせ、類まれなる実行力によって築いてきたといえるだろう。西山の場合、幼・青年時の言動を通しても、その偉大なリーダーのなかに入るべきビジョンと技術を有した貴重な人物だったといえよう。まさに、このリーダーゆえにこの決断あり、である。


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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