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西山彌太郎、日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設

西山彌太郎、日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設

(2011年8月12日更新)

 
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日銀総裁の反対を押し切って実行した巨大工場建設。高度成長のパラダイムを生んだ壮大な計画。企業家センスがもたらした西山彌太郎の決断の背景に迫る。

 

* * *

 

日本の将来は製鉄にある。鉄の大量生産を通して日本経済の発展を図らねばならない――そうした信念のもと、川崎製鉄初代社長に就任した西山彌太郎。

彼のビジョンの実現のために不可欠だったものは、過去に例を見ないものであった。「銑鋼一貫方式の大工場」である。あまりの壮大さゆえに、その計画を暴挙と危惧し、反対する声はいや増しに増す。しかし、西山の決断は揺らぐことはなかった。

千葉製鉄所を成功させ、業界全体の拡大、ひいては日本の高度成長を牽引することになる“川崎パラダイム”の軌跡をたどる。

  

日銀総裁、通産省への反逆

川崎製鉄(以下、川鉄)社長西山彌太郎が時の大蔵大臣池田勇人を訪ねたのは、昭和二十五(一九五〇)年十月、川崎重工業から分離独立直後のことである。目的は資金であった。西山が企図する年間百万トンの粗鋼を生産する銑鋼一貫工場建設のためには、当時の金額で百六十三億円が必要であり、その半額の八十億円を政府に期待したのである。

 

西山は池田に、製鉄こそ日本産業の将来を決する鍵であり、この工場は、その発展の夢を実現するための一大方策であることを述べた。聞き終わると池田は笑って、「君のいうとおりだ、しっかりやってくれたまえ」と同意し、国内資金については日本銀行総裁である一万田尚登に依頼することを勧めた。

 

当時、一万田は戦後のインフレを抑え、逼迫した金融行政を巧みに切り盛りしていた実力から“金融界の法皇”とあだ名されるほどの権勢を誇っていた。一万田と面会した西山は自説をくり返し、自信と期待をもって返事を待った。

 

ところが、である。沈黙のあと、一万田が放った言葉はすげないものだった。

 

「君の言う金は大きいな。それをいっぺんにやるのは、ちょっと無理じゃないか」

 

言葉こそ穏やかだが、それは明確な否定であった。それだけではない。一万田は、

「もし反対したにもかかわらず強行するなら、川鉄千葉にはペンペン草を生やしてみせるぞ」

と息まいたという。西山の計画は法皇の目にはそれほど過激だったのであろう。また西山の建設計画書が通産省の業界施策を逆撫でするものであったのも事実であった。

 

当時、日本にあった高炉は全国で三十七基だが、操業されているのはわずかに十二基。通産省としては、戦災で傷んだ高炉を修繕し稼動数をふやす方針であるから、新工場の建設は資本の「二重投資」になる。資本金五億円の川鉄がなぜ百六十三億円を投じて工場を建設しようとするのか、理解に苦しんだのである。

 

西山はいかなる根拠に拠ってこれほどの壮大な計画を描き、その実現に固執したのであろうか。 

 

なぜ銑鋼一貫方式なのか

そもそも日本の鉄鋼生産方式は、二つに分類される。一つは銑鉄をつくり、銑鉄から鋼をつくる、いわゆる銑鋼一貫生産方式。もう一つは、くず鉄を買い入れ、そこに若干の銑鉄を混ぜて鋼をつくるスクラップ製鋼方式である。そして当時、銑鋼一貫生産方式を採用していたのは、日本製鐵が分割して誕生した八幡製鉄、富士製鉄と、新たに高炉を持った日本鋼管の大手三社で、川鉄、住友金属工業、神戸製鋼所といった関西の三社はスクラップ製鋼方式であった。

 

旧日本製鐵が永らく唯一の銑鋼一貫方式であったのは、官営ゆえに有事の際に、くず鉄や銑鉄の輸入が途絶えるというリスクに備えた、国防上の理由であった。そうした使命を担わない民間鉄鋼会社においては、短期的な利益優先、すなわち自前の銑鉄をつくるよりも、海外から安いくず鉄を輸入したほうが、圧倒的に経済的だとしていたのである。規模もヨーロッパ式の小さいものであった。

 

しかし、西山の見解は一段違ったところにあった。西山はこう述べている。

 

「戦前の日本の指導者たちの考え方は、“日本は国が小さい。大きなことをいってもダメだ。小さい機械でヨーロッパ式に、いるだけのものをつくっていこう”というところにあった。したがって、よけいにつくって売り広めようなどという商魂は、毛頭なかったのである。(中略)しかし、戦後は世界情勢もすっかり変わったし、国内事情も変わった。世界は交通機関の発達によって著しく狭くなった。貿易は必ず自由貿易になる運命にある。そうすれば、コストの競争になる。そこで私たちは、製鉄の方式も変えて、大規模生産方式をとり、コストを世界的レベルまで下げるべきである……」(『鉄づくり・会社づくり』)

 

西山は、戦時中に酷使された炉はガタガタで使用に耐えず、また小規模であることはまぬがれないので、かえってコスト高になると見切っていた。だからこそ今後の世界的競争を予見すれば、銑鋼一貫方式の一大工場は必要不可欠としていたのである。

 

千葉製鉄所の革新性と産みの苦しみ

しかし、走り出してみると現実は厳しいものであった。工場建設地の選択から苦労の連続で、山口の徳山(現・周南市)、防府と候補地は挙がるがなかなか踏み切れなかった。そんななか、千葉にあった日立航空機跡が土地の広さ、水流もよいとのことでようやく決定。そこに日本最新鋭になるための工夫一切を盛り込み、六十数回の変更を重ねて練り出された計画は、これまでの製鉄所の概念を超えた画期的なものとなった。それは工場内を走る運搬用のレールの長さをくらべるだけでも容易に理解できる。

 

当時日本最大級の八幡製鉄所の工場内のレールは延長五〇〇キロに及んだ。つまり、工場内のレールに乗れば東京から大阪までの距離を走るに等しいのである。それはそれですごいともてはやされていたものであったが、裏を返せば非効率を示す以外の何ものでもない。

これに対して、川鉄千葉製鉄所のレールの総延長はわずか六〇キロに抑えられた。そのなかに、溶鉱炉、平炉、圧延設備が一気にライン化されている。まさに「毛筋ほどの無駄もない」設備であった。

 

川鉄千葉の計画は、結果として以降の日本の臨海製鉄所の基本形となり、ひいては世界の製鉄所のレイアウトのプロトタイプになったのである。

 

さて、通産省の許可は容易に下りなかったが、大臣が替わって昭和二十七(一九五二)年にようやく正式に許可された。一年以上にわたる努力を要したことになる。

 

いよいよ実現一途となって、西山を悩ませたのはやはり資金問題であった。結局、日銀の支援は即とはいかず、西山は自己資金のみで強引に建設を開始した。幸い労働組合も他社より低い給与にも甘んじて付いていったが、西山にもっとも重責がのしかかった時期であろう。

 

資金調達のために西山が着目したのは、昭和二十六(一九五一)年に発足したばかりの日本開発銀行(開銀)からの融資と、世界銀行(世銀)からの借款であった。開銀総裁小林中は、「安全確実を優先するなら政府系金融機関などいらない。一万田君が反対しようとかまわない」と言って支援をした。世銀の借款については、融資を申請すれば、世界のライバル企業にも川鉄の目論見が顕になると、反対論もあったが、背に腹は替えられない。世銀の視察団がやってきて千葉製鉄所を見学、そのプランに感心し、借款が決定したという。

 

西山の壮大な製鉄所はここに順調に拡張され、昭和三十六(一九六一)年には粗鋼六〇〇万トンを生産するに至った。実に、戦前の日本の全生産高に匹敵するものを千葉一工場で実現するようになったわけである。 

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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