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小林一三、プロデューサーとしての才覚の源泉

小林一三、プロデューサーとしての才覚の源泉

(2011年9月26日更新)

 
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奔放な行動から、エリート銀行行員の枠に収まらず、出世難が続く小林一三。あるきっかけから経営者への道を歩み始めた。小林一三の企業家としての本質に迫ります。

 

文学青年

大正二(一九一三)年に宝塚歌劇団が誕生して間もない頃、劇団の作曲家が小林の方針に反発して楽譜を持って雲隠れしたことがあった。ところが小林は公演前の危機にも動じず、音楽の教科書をかき集め、糊とハサミによる継ぎはぎで曲をつくり、にわかに筆を執って「紅葉狩」や「村雨松風」といった脚本を書きあげた。この荒技に、逃げた作曲家のほうが詫びを入れてきたという。きっかけこそハプニングだったが小林の自作歌劇は本格的で、以降「白虎隊」「恋に破れたるサムライ」等十数本に及び、「日本武尊」は七代目松本幸四郎の絶賛を受けるほどだった。

このように小林は芸術家的センスがあったというよりも芸術家の一面を持っていた。

経営者としての小林一三を見るとき、この芸術家的資質が事業経営にいかに働いたかが興味深い。独創的なプロデュース活動を次々に決断し得たのも、そこに大きな鍵があるといえよう。それでは、この芸術的センスにあふれる小林のパーソナリティやキャリアはどのように形成されたのであろうか。

小林は明治六(一八七三)年一月三日、山梨県韮崎に生まれた。名の由来は月日にちなんで付けられたものである。生家は豪農で、酒や絹の問屋も営んでいた。父甚八はやはり山梨で指折りの素封家から来た婿養子であったが、妻フサが小林を産んだ年の八月に病死すると、離縁して実家に帰ってしまった。以降、小林は叔父の手によって育てられる。両親の薫陶や躾を受けずに成長したことについて、小林は次のように述べている。

「私には信仰している宗教はない。仏教もないし、もちろんキリスト教も回々教もない。……私は全く宗教と無関係である。……親に育てられれば、何しろ日本は仏教国だから、親の口から仏教に関する言葉くらいは聞かされていたかも知れぬが、孤児の私にはそうしたチャンスも与えられなかった。こういう風で、宗教上の教訓めいたものを授けられたような事は余りなかったわけだ」(『小林一三傳』)

孤児であったが、生活は豊かで厳しい躾を受けなかった。奔放さの背景を物語る一つの要件かもしれない。

数え十六歳まで韮崎で過ごした。小柄で身体の割合に頭が大きく、利発だったが、蒲柳の質で、癇癖の強い子供だったという(同前)。明治二十一(一八八八)年、慶應義塾に入塾のため上京。

『逸翁自叙伝』は、その折のことを、「三田通りで人力車を降りて、正門を見上げながら坂をのぼり、義塾の高台に立って、生れてはじめて海を見たのであるが、そのとき、どういうわけか、海は青白く、あたかも白木綿を敷いたように鈍ぶい色で、寒い日であったことを記憶している」と小説のように描写している。

慶應義塾における小林はもっぱら学業よりも、小説修業と観劇三昧だったという。小林の文学歴は生半可ではなく、在学中に小説「練絲痕」を『山梨日日新聞』に連載、卒業後も『上毛新聞』に「お花団子」を連載するほどの腕前だった。

 

出世難続きのサラリーマン小林

慶應義塾を卒業後、明治二十六(一八九三)年、三井銀行に入行、サラリーマンとなった小林だが、「ちょこちょこ歩いて、キザなことしかいわない」と評判は今ひとつだった。そもそも入社時から素行が逸脱していた。旅先の熱海で知り合った女性に恋焦がれ、ずるずると滞在を長引かせ、慶應の卒業式を欠席し、予定されていた三井銀行の初出社日にも姿を現わさなかったのである。東京に戻ってもその女性を追いかけ回す。「私は上二番町の彼女の家の前を、何度行きつ戻りつしたことであろう。三井銀行から催促を受けたけれど、どうしても銀行にゆくのは気が進まない」(『逸翁自叙伝』)

こうした小林の色恋沙汰はエリート行員のご乱行ということで、業界新聞にも取りあげられ、代々の上司をやきもきさせていたが小林の人生では若気の至りにすぎない。

ただ、放埒な性向が組織のなかでは風紀を乱し、まして、銀行という堅い業種では異分子となったのはやむを得ない。作家活動も続けていたのだからなおさらである。

出世難も何度かついて回った。明治三十三(一九〇〇)年のある時期、住友銀行副支配人にスカウトされたが、結局は住友側から「素行がおさまらない道楽者だから」という理由で拒絶される。その年の十二月には、東京箱崎倉庫主任に栄転の内示を受けながら、行ってみれば主任取り消しで主任次席になったこともあった。

これら屈辱的な経験に対して、小林は心中けっして太平楽だったわけではなく、その都度、憂鬱を感じていたようである。ほどなく、大阪に新設予定の株式仲買店支配人の就職口に乗ったのは、有能だった専務理事の中上川彦次郎を喪い、停滞していた三井銀行での生活に耐えられなくなったからとされるが、おそらく長年感じていた自身の行き詰まりを打開しようという意味合いもあったのであろう。

そして大阪に来たものの株式市場の暴落で、支配人の話も消失。流浪の身を阪鶴鉄道に拾われ、監査役に就任。その関わりから新線の箕面有馬電気軌道の創立に関わり、ついに経営者の仲間入りをする。

サラリーマンとしては燭光を見なかった小林が、経営者として立ち大きな責任を背負い、たびたびの危機に直面するなかで次第に才覚を発揮していく。人生と仕事の不思議な組み合わせでもある。 

 

浮世離れの浮世通

そういう意味で、小林ほどその才覚の源泉が生まれ育ちとパーソナリティに依存する経営者はいないのではないだろうか。サラリーマンとしては不適格な感覚も、経営者の才覚としては武器となる。事実、画期的な戦略とは知恵才覚で測れるものではないだろう。

世間の常識を越えるという意味で浮世離れというが、小林ほど浮世にも通じた人間もいなかったのではないだろうか。そもそも、金銭感覚からして違う。学生時代に年間二百円の仕送りを受け、当時最高級の生活であったと自叙伝に述べている。三井での初任給が十三円、賞与を入れると月平均二十円の収入を得る身分にありながら、なお引き続き年間千円の仕送りを受けていたことからも想像できる。

そうしたゆとりがあるから、学生時代から観劇や落語といった興行に足しげく通うことができた。そうすると、作品鑑賞とは別に、興行の成否についての感覚も研がれていく。大阪時代、親しかった芝居小屋座主の秋山儀四郎からこんな教えをもらっている。

「『興行の成否は舞台の上の役者の芸を見ていては失敗する。当るか当らないかは二階の一番奥のお客様の様子を見ればよい。あのお客様たちがほんとうの芝居好きで、彼らが余所見をしているなら、必ず損だよ』(中略)私は後年に劇場経営に関係するようになって、この秋山翁の格言の真実なるに驚いているのである」(『逸翁自叙伝』)

学生としては不謹慎でも、れっきとした芸能通であったことは、小林の実力の一端なのは間違いない。かの宝塚歌劇団にせよ、一通りの成功のあと、本格的オペラ育成のために男女混合にすれば、という専門家の意見を小林は一蹴した。女が演ずる男は男以上のものだとして、さらに、「少女歌劇は理想とする国民劇への過渡期の産物であり、物には平凡の非凡があるごとく、矛盾の快感や未成品の妙味と、刻々と変化する行程そのものに、捨てがたい価値がある」と述べている。その感覚が正しかったことに異論はないだろう。

 

本質はプロデューサー

では、小林の仕事ぶりもサラリーマンらしからぬ浮世離れしたものだったのかといえばそうではなかった。むしろきめ細かく、行き届いたものだった。たとえば、箕面動物園唱歌にしても作詞しただけではない。開園にあたって小学校を回り、授業時間に歌を練習してもらい、児童一人ひとりに絵ハガキと小旗を与えた。絵ハガキを渡せば、家族全員が見るにちがいない、という深い読みである。こうした手の込んだ仕掛けを自分の足を運んでしていた。

住宅開発もたんなる思いつきではない。新線予定地を二往復も歩いて分譲の可能性を確信していたし、住宅設計においても新しい洋式住宅を設定し、細かくプロデュースした。

現場を見る。そして、成る事業をイメージする。実行するとなったら細かくクリエイトする。つまり、銀行員としてはセンスを生かせなかったのかもしれないが、小林の本質は今でいうプロデューサー的仕事師なのである。だから、企画力・実現力ともに器用だと自認するだけ、作詞でもコピーでも屈託なく何でもやった。指示のみ出して現場の部下に任せる経営者とは、根っからタイプが違うのである。たまたまそうした人物が鉄道を経営しつつ、都市を演出することになったというわけである。歌劇の創作もその一部であった。

小林の性格はクールだったという。慶應の同窓であり、企業家としても親友の松永安左ヱ門は、「小林君の性格のうちに『不関心』ともいうべきものがある」(「半世紀の友情」『小林一三翁の追想』)と証言している。それは“のぼせない、あせらない、我関せず”という性格だという。

「不関心」というクールな性格がパーソナリティの根源にあり、エリート教育と観劇や花街通いから、興行感覚いや経営感覚を身につけた。極言すれば小林一三という異色の経営者はこうして誕生した。

小林自身は事業経営の着眼点を後年こう述べている。たった三つ、「何が根本か」「経費を落とすこと」「無理は禁物」(『実業の日本』昭和二年四月一日号)だという。ここでもクールで素っ気ない。当人からすれば、簡単明瞭な条件だろうが、その収斂には、生来のセンスと経験の融合が背景にあるわけである。手法をマネしても小林のようにうまくいくかは別問題であろう。 

 


渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長

専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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