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太田垣士郎、人間力の原点

太田垣士郎、人間力の原点

(2011年11月21日更新)

 
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京阪神急行電鉄から関西電力初代社長に抜擢され、人跡未踏の北アルプスのど真ん中に現代のピラミッドともいわれる黒四ダム建設を断行した太田垣士郎。稀有な精神力に支えられたその決断の背景に迫る第2回。 

 

*  *  *

 

堅忍不抜の気性

太田垣の黒四ダム建設の決断ほど、その人間的器量が試された決断はいくらもないのではないだろうか。ただ一括りにして表現するならば人間的器量というのであろうが、そこには二つの要因があったのではないかと思われる。それはまず人一倍、堅忍不抜の人であったということ、次に人一倍情愛の人であった点である。

 

堅忍不抜を育んだのは幼少時の災厄である。明治三十八(一九〇五)年九月一日、兵庫県城崎尋常高等小学校高等科二年に進んでいた太田垣少年は、夏休み明けの登校途中、今でいうノートがわりの半紙を止める真鍮製の割り鋲を過って飲み込み、それが気管支に突き刺さるという奇禍に遭う。口にくわえて歩いていたところを友人に背中を叩かれた拍子にそうなってしまったという。息が苦しくもがいていたが、医者である父も手の施しようがなく、京大病院に担ぎ込まれた。しかし、それでも結果的に摘出できなかった。

 

以来、それまでの腕白少年が、一転病弱の身となってしまった。結局その年は百六日も欠席、翌年も九十日を数え、太田垣は血痰と発熱に苦しむ忍従の日々を送った。この割り鋲は六年後、兵庫県豊岡中学時代に奇跡的に激しい咳とともに排出された。その後の太田垣は、“ガキ士郎”といわれるほどに快活になったが、この経験は太田垣に人生の試練と開き直りの妙味を伝えるものだったといえよう。

 

大正九(一九二〇)年、京都帝国大学経済学部を卒業した太田垣は日本信託銀行に就職する。そして、株に手を出してみたが見事に失敗する。

 

到底性分に合わないと悟って転職を考えていた折り、上司に誘われたのが阪神急行電鉄(のち京阪神急行電鉄、阪急電鉄)であった。阪急・東宝グループ創始者の小林一三との出会いである。庶務課文書係に落ち着いた太田垣の机の傍らには小林の席があり、いわば直属、直接指示を受けることが多かった。小林は、車掌から切符売り、宝塚歌劇の場内課長に百貨店のフロア課長と、太田垣にたくさんの部署を経験させ、現場感覚と合理主義を磨かせた。天才肌の小林の厳しい叱責に疲れきり、潰れる部下が多かったというが、太田垣は耐え忍んだ。

 

サンケイ新聞社長だった水野成夫が小林との対談の際、小林が鋭く細かすぎるので後継者は育たないと世間が言っていると指摘したところ、小林は、「その噂は誤解だ。うちは多士済々、群雄雲の如しだが、なかでも図抜けているのが太田垣士郎。あれは本物だよ。ぼくより偉くなるやつだよ」(『太田垣士郎氏の追憶』)と太鼓判を押していたという。

 

人間力の原点――試練と愛

もう一つの要因である情愛の人といえるのは、太田垣がだれにもまして愛され、そしてまた愛を与える人であったことに尽きよう。

 

太田垣の父隆準は兵庫県城崎の開業医で慈愛深い人徳者だった。医業を継がせたい気持ちから太田垣には厳格なスパルタ教育を課したが、最終的に太田垣が選んだ進路については理解を示した。父子の強い絆が確認されたのは、昭和二(一九二七)年七月、隆準が脳溢血に倒れたときのことであった。

 

隆準親子の知己であった三上紀之の証言によると、半身不随で人事不省の重体に陥った隆準は、意識がないなか、残る片手で指を折る仕草をしていたという。それは隆準が毎朝千遍唱えていた「南無大師遍照金剛」の指折りだった。太田垣の気管支に割り鋲が入ったとき、隆準は医者ながら如何ともできず悲嘆にくれた。それが六年後、自然と飛び出したのがお大師様の日(二十一日)だったというので、以来、それまで非科学的なことや迷信など信じなかった隆準が、息子を救ってくれた御礼として一日も欠かさず感謝の声明を唱えていたのである。そんな父への太田垣の敬愛は相当なものだった。

 

一方、太田垣自身は父親として耐えがたい試練を経験している。京阪神急行電鉄社長に就任して二年目、戦後の激しい労働組合の攻勢に対しているさなかに、長男と長女を相次いで喪ったのである。長男の力は戦時中に学徒動員で出征したが健康を損ね床に臥していた。その長男が長期にわたる闘病もむなしく二十二歳で力尽き、またその力を献身的に看護していた長女の陽子もショックのあまり二十五歳という若さで亡くなったのであった。

 

太田垣はこう記している。

「人一倍子ぼんのうだったわたしが、この何ものにも換えがたい大切なものを、一度に二つまでも突然むしりとられた悲しみは深かった。彼等はふたりとも人生を知らずに、いや、測り知れない可能性に満ちたその世界にやっと一歩を踏み出したそのときに、道をふさがれ逝ってしまった。地位も名誉もどんな物質も、ここでは何の役にも立つはずがなかった。いやどんなに頑張ってみても、自分の小さな力では、この残酷な『死』をくい止められなかったという事実が、わたしにはむしろ耐えがたく、みじめに思われた。『よし、自分の余生は逝った子供たちの代わりに力の限り働くことに費やそう』と決心した」

(『中央公論』一九六一年八月号)

 

この痛恨事を禅にふれることによって克服した太田垣は、経営者として筋を通すことの大切さを後進にも訴えていた。「怒らず焦らず恐れず」という言葉を太田垣流経営の真骨頂として自ら唱えていたが、そうした強みは肉親との強い情愛によって支えられていたといえよう。

 

そしてただ強かったのではない。関西電力社長就任に際して、敵対していた京阪神急行電鉄の労働組合の役員が「行ってくれるな」と引き止めたという。それは太田垣の情味ある人間的魅力のゆえであろう。

 

今、理知と才覚にあふれた経営者は巷間珍しくないかもしれない。しかし、太田垣のような人に倍する精神力と、人間的徳望を併せ持つ大器量の経営者が年々減るばかりに思えるのはもの哀しい限りである。 

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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