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新幹線の生みの親・十河信二、その意思と行動力

新幹線の生みの親・十河信二、その意思と行動力

(2011年12月21日更新)

 
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執念で新幹線を実現させた十河信二。組織と社会を動かした、その強い意志と行動力の背景に迫る。

 

*  *  *

 

開業式を翌日に控えた昭和三十九(一九六四)年九月三十日、朝野の名士やマスコミを招待して新幹線試乗会が行なわれた。さりげなく席に着いた国鉄前総裁の十河信二は中継するアナウンサーから「あなたの席はあっちです」と告げられた。

そこは特別招待席であって、「あなたの席ではない」というのだ。

総裁就任以来新幹線を発想し、かつ八年にわたってその実現のため粉骨砕身してきた功労者に割り当てられていた席は、一般招待者の席だった。

 

去る昭和三十(一九五五)年、国鉄が経営する宇高と青函連絡船の相次ぐ大事故により世間の批判にさらされ、国鉄総裁になり手はなかった。そんななか、白羽の矢が立てられたのが七十一歳の十河であった。難問山積の国鉄経営において、ひそかに十河が企図していたのは、夢の超特急・東海道新幹線の建設である。しかし当時は、これからはアメリカのように飛行機と自動車の時代になるのだから、鉄道は斜陽化の典型だというのがすべてのマスコミの論調だった。十河は孤立無援のなか、新幹線建設に動きはじめた。

 

新幹線の生みの親

十河信二が自らの人生を語った『私の履歴書』(日本経済新聞社)、ならびに十河の伝記第一号といえる中島幸三郎『風雲児・十河信二伝』(交通協同出版社)の頁を開くとはっと気づくことがある。いずれもその巻末は、十河の昭和三十(一九五五)年の国鉄総裁就任を以て大団円としていることだ。総裁就任後二期八年で新幹線開通という大事業を行なうというのに……。

 

昭和二十一(一九四六)年、愛媛県西条市長を辞し、次いで鉄道弘済会会長を経たあと、十河は人生何度目かの浪人生活を送っていた。すでに古希を迎え、当時の定年を考えればそこで過去の人となってもおかしくない。それが、多くの死者を出した宇高と青函の両連絡船の大事故によって、国鉄第三代総裁の長崎惣之助が引責辞任したため二十九年ぶりに古巣に復帰するとは、十河自身、予想もつかないことだったであろう。

 

ところで、十河が世間の意表をついて総裁に就任したのはなぜか。直接的には同じ四国人の政治家三木武吉らの推挙によるものだったが、三つの要因が考えられる。

 

一つは先述のように、不祥事が続いて国鉄総裁に対する風当たりが強いため、国鉄内から総裁を望む者はいなかった、いわば天の時が十河に向いていた。二つには、日本の復興につれてふえはじめた旅客・貨物が大動脈である東海道本線に集中し、輸送容量は飽和状態となり、これを解決するための抜本的な対策立案が迫られていた。この課題に対処できる力量の持ち主としては、実績面で十河しかいなかった。最後は、十河自身の人間的資質に対する評価であろう。剛毅で面構えも野武士のごとく骨太、しかしながら、至誠の人柄である。

 

総じていえば、浪人暮らしが長かろうと、七十の坂を越えていようと、十河の人間力はなおだれもが認めるところだったのである。

 

孤立無援のなかから

現代から見れば意外なことがある。新幹線をつくろうと十河が意図したとき、有識者、政治家、それにマスコミもこぞってそれを“非常識な夢”としたことである。その背景には、日本の鉄道政策上に長くのしかかっていた「狭軌―広軌」論争があった。すなわち線路の幅の規格のことである。

 

明治初期、日本に初めて鉄道がもたらされたとき、イギリス人技師は、山が多く、川と谷が複雑に入りくむ日本の地形と貧しい予算を考慮し、先進欧米国では標準であった広軌ではなく、狭軌を採用した。当時の日本は刀とまげをやっと捨てた極東の小国、たしかに迅速に鉄道網を整えるには、狭軌は正しい選択であったが、世界の大国に急成長したあとはスピードや輸送力においてたちまち限界が生ずる。そのためにできるだけ早い段階で、すべての線路を広軌に変更すべきという議論が明治末期からあった。ところが、そのためにはかなり長い区間を一挙に切り換えるという技術的課題と莫大な予算が必要となるために、計画が浮上しては消えるといった状況がくり返されていた。

 

十河が総裁に就任した当時でも、焦眉の急であった東海道本線の輸送力増強案については、狭軌派が圧倒的であった。

 

増強案は狭軌のままで東海道本線を複々線化する案、あるいは今の新幹線ルートに狭軌を敷く案、それと広軌で別線を敷く三つの案があったが、狭軌案を採用すれば、線路容量が不足する区間から逐次線路を増設でき、輸送力増強の即効性と経営の安全性からすればこの案が当然とされた。十河がひそかに広軌別線を決断しながらも、総裁就任当初、新幹線の「し」の字も述べなかったのは、国鉄内部の専門家も外部の政治家もこぞって広軌別線をきわめて非現実的な“老人の妄想”として捉えていたからだった。

 

したがって、十河の新幹線建設の決断は、何よりも、その先見性が評価される。七十一歳という国鉄内で最長老の総裁が遠い日本の将来を見据え、高速鉄道の可能性に夢を馳せていたのである。また十河の指示により、東海道新幹線の開通二年前の昭和三十七(一九六二)年には、鉄道技術研究所は次代の鉄道としてリニアモーターカーの研究開発をはじめていた。その見識は驚くばかりである。

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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