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大河内正敏、科学者の楽園・理研コンツェルンを創造

大河内正敏、科学者の楽園・理研コンツェルンを創造

(2012年2月13日更新)

 
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資金不足や内紛で混乱を極めた財団法人理化学研究所を、「科学者の楽園」と呼ばれるほどの環境に変え、さらには、特許や技術を自らの手によって事業化して「理研コンツェルン」と称される企業群を設立した大河内正敏。“殿様”のDNAが可能にした、その決断の背景に迫る第2回。 

 

* * *

 

理研コンツェルンの発展

理研コンツェルンの創成は、昭和二(一九二七)年に三菱、住友財閥の出資を得て設立された理化学興業の誕生からはじまった。大河内が会長に就任し、財団法人たる理研が筆頭株主であった。理化学興業は、理化学研究所の発明・発見・考案を工業化し、生まれた製品を販売し、特許や許諾の仲介をするなど、理化学研究所のための会社であり、その利益もほとんどが研究所に還元された。もちろん大河内の意向によるものである。

 

大河内の企業家としての手腕はさまざまな面で見られた。

最初のヒット商品は、鈴木梅太郎研究室が肝油からビタミンを抽出したことによって誕生した「理研ビタミンA」であったが、大いに売れた。途中、警視庁から「ビタミンA」は学名であって商品として不適格との横槍が入った。すると大河内は動じることなく、「ならばAを取ろう」とすぐに「理研ビタミン」と商品名を変え、商品力はかえって高まった。こうした難局を打開する機転は見事であった。

 

また、鈴木梅太郎が開発した、米を必要としない合成酒の開発・製造、そして自らの研究室からも航空機産業に不可欠なマグネシウムの工業化、さらに内燃機関の主要な構成部品であるピストンリングの開発のために、理研マグネシウムと理研ピストンリングを設立するなど、理化学興業の事業拡大は急速に展開された。新たな企業群の設立は「芋蔓式経営」と呼ばれるに至った。すなわち、高度な技術は生み出す成果が農業なり工業なりに芋蔓のように繋がって新しい事業を産む。またその真意は、通常大量生産がかなわないことから赤字に陥る事業を、副産物までも工業化する目星をつけ、主製品と副産物の総体で黒字化できるまで拡大して展開しようという意図にあった。

 

このように拡大した理研コンツェルンは最盛期(昭和十四〔一九三九〕年)には、会社数が六三、工場数は一二一にのぼった。経営センスとリスクを恐れない決断力の賜物であろう。

 

もう一つ経営力を感じさせるのは、人材のマネジメントである。

大河内自らは理研コンツェルン各社の会長を兼務しながら、理化学研究所の研究員が経営に関わることを禁じた。研究者は研究こそ目的とすればよいのであって、利潤を研究の主眼としてしまうと、理研コンツェルン全体の目的、技術立国に寄与する意義を失うからだという。大河内は入所した新人研究員が「自分の研究は役に立たないかもしれない」としり込みするのに対し、「科学者の良心に基づいて自由に研究すればよい」と励ました。

 

大河内は専門経営者の発掘においても経営者ぶりを見せ、人材抜擢を重ねている。先にふれた市村清の例がある。市村は熊本で保険の外交員をしていたが、ふとした縁で理化学興業が製造する理研感光紙のことを知り、その将来性を見込んで代理店としても関わろうと近づいた。そして、実績を積んで理化学興業の九州総代理店を請負うまで成長したにもかかわらず、契約時における理研側の消極的な姿勢に不満がつのった。そこで市村は上京し、総帥たる大河内に直談判に及んだ。出張中の大河内に近づき車中に相乗りして、熱弁をふるったという。

 

大河内は無礼な訴えを黙って聞いたあと、市村の要求をすべて呑み、事業を任せるどころか理化学興業本社に招き、挙句の果ては新設の理研感光紙株式会社の事実上のトップ、専務に抜擢する。キャリアによらず人材を登用する度量を持っていたのである。その一方で、コンツェルン内で不正を働いた経営幹部に対しては手紙一本で首を切った。失敗もあったがこうした峻別ある決断と実行は明らかに経営者の本領発揮であろう。ただ、大河内がこうした強い権限を発揮したことが、グループ企業の経営管理上の人材確保や経営判断につねに大きな不安を残したのも事実であった。 

 

科学主義工業

さて、理化学興業をはじめ理研コンツェルンの誕生は、大河内しか成し得なかった企業家精神の成果という印象が強い。ならば、なぜ大河内がそうした決断を下すことができたかをもう少し深く捉える必要がある。大河内が理化学研究所を自ら事業化させた理由は、民間企業に任せたくない何かの信念があったのではないだろうか。

 

その答えの一つとして忘れてはならないのは、大河内が自らの経営思想として「科学主義工業」を表明しているところである。社内誌の月報に大河内はこう書いている。

 

「理化学研究所の理論科学が生む発明と発見、之が工業化を担当する生産工学、之が経営を担当する経営工学、之等を総称して我等は科学主義と呼ぶ。科学主義工業は理論ではなく実践である。実行の伴はない理論こそ科学主義工業の最も排斥する所である。資本の安泰と蓄積のみ希ってその果敢なる利用を好まない資本主義工業に挑戦する科学主義工業は、たゞ科学の命ずる所に向って驀進する。……」

 

日本は資源の少ない国である。そのハンディを科学技術によって資源を極限までに有効利用することができれば、補って余りある国家的発展も可能になる。大河内のめざすところは、いわゆる科学技術立国である。また科学の発明・発見は連鎖的であることを以て「芋蔓式経営」も正当性があると主張するのである。

 

そして、文面から窺えるのは、当時の日本の資本主義体制に対する不満である。資本家は科学のもたらす工業化の優位性を理解していない。科学技術の発展を生かす工業経営が確立されなくして、国力は高まらないというわけである。

 

 

理化学研究所の悲劇と真のベンチャーとは?

この「科学主義工業」の主張を見てもわかるとおり、大河内のめざした理化学研究所の興隆ならびに理研コンツェルンの成長は、国益、国家的視座に立ったもの。さらに大河内の専門造兵学からすれば、国防意識が強く反映しているとされている。愛国心である。当時の指導者が共有していた国益志向として愛国心を挙げるほか、大河内の決断の理由を考えるとすると、やはり彼のアイデンティティに結論づけざるを得なくなってくる。なぜなら理化学研究所と理研コンツェルンの発展は日本の経営史上でも稀有な現象であり、その特異性を突き詰めると、一個の人間としての大河内正敏のリーダーシップ以外に説明がつかなくなってくるからである。もし別人が第三代所長であったとしたら、理化学研究所はまずシンクタンクの域を出ず、巨大な産業団が生まれることはなかったであろう。

 

大河内のDNAの本質はやはり“殿様”しかも名君であったということになるのだろうか。人の上に立つことが当然だという気質、華族であることの自負は潜在的に大きく影響していたかもしれない。同じく久留米藩主の子孫であった作家の有馬頼義はいかなる会合でも上座に座るクセがあったという例もある。また愛国心、国粋的な姿勢というのは、やはり明治天皇の寵愛を含め、彼の生育した環境と無縁ではないだろう。この点、彼の企業家精神について新しい議論が必要だと思われる。

 

大河内の活動は、戦時、高い技術性を有したゆえに、戦時体制のあおりを受けてしまい、理化学研究所は悲劇をたどる。実験物理学の権威・仁科芳雄研究室は軍部から原子爆弾の研究を依頼されたことから、実験施設サイクロトロンを有するに至る。終戦後、このサイクロトロンは米軍に没収され、東京湾に投棄される。同時に、軍事に近かったがために理化学研究所も理研コンツェルンも解体されることになった。この有能な機関が時代の徒花と消えたのは残念なことであった(現在の理化学研究所は昭和三十三〔一九五八〕年に特殊法人として発足)。

 

また、戦犯の疑いをかけられた大河内は巣鴨拘置所に拘束される。昭和二十一(一九四六)年に釈放されたが、所長の座を追われ、不遇な余生が残った。父正質が鳥羽伏見の戦で幕軍にあったがために幽閉の憂き目に遭ったが、息子もまた同じ経験をしたのは運命的である。

 

理研コンツェルン各社をベンチャー企業の草分けと見るのは当然であろう。しかし、あくまで研究本位であったという点で大きく異なる。CSR(企業の社会的責任)の欠如が社会問題化されている現代の資本主義のなかで、一攫千金を求めての技術経営など、大河内の目からすればきわめて意義の小さなものに映るに違いない。大河内の前にもうしろにも同じ光彩を放つ経営者がいないことは寂しい限りである。 

 



渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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