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中上川彦次郎、大財閥再生のための近代化路線

中上川彦次郎、大財閥再生のための近代化路線

(2012年3月12日更新)

 
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プロ経営者の元祖として繰り返した華麗な転身。大財閥再生をなしとげた中上川彦次郎の転身力・転進力がある中上川彦次郎の決断の背景に迫る第2回。

 

* * *

 

山陽鉄道、そして三井入り

そんな中上川がなぜ『時事新報』を去ったのか。それはさらに大きな身の働きどころを求めたからにほかならない。中上川は貿易関係会社への就職を求めたが話がうまく進展しなかった。そんななか、慶應義塾から三菱財閥に入った荘田平五郎から新設の鉄道会社、山陽鉄道会社入りを勧められた。まったくの異分野だったが、中上川は即断した。しかし、社長就任までには紆余曲折があった。新設の公的な企業ということで別人を推す声もあったのである。中上川は自らかつての上司、外務卿の井上馨に後押しを頼んで、その職を射止めた。根回しもまた巧みであった。

 

山陽鉄道における中上川の業績もきわめて大きなものであった。鉄道先進国イギリスを見た経験も生きたのであろう。国家的事業の見地から、長期的視野に立って敷設を推進した。たとえば、線路は複線を重視した。資金面での問題と、軍事目的を主とすることから単線としていた計画を、大量旅客の時代の到来によって複線化がすぐに必要になるとして変更した。また、線路の勾配は「百分の一」を遵守することにこだわった。鉄道技師たちは、起伏に富む日本の地形を考えれば、「四十分の一」勾配まではやむを得ない、とかみついた。しかし、中上川は、「急勾配こそ不経済であり、開通後に本数がふえればきっと再工事を余儀なくされる」と譲らなかった。これも中上川の決断が正しかった。短期工事を優先して「四十分の一」勾配で設計した九州鉄道ではのちに再工事をしなければならなくなり、大損害を被ったのである。カーブの最大値十五度というのも、安全性の点から中上川が自ら指示した数値である。

 

中上川はイギリスの鉄道専門書を読破して、技師たちに勝る最新の知識を有していた。先を見越した大胆な用地取得、かつ迅速な敷設の推進。中上川は大いに敏腕を振るった。

 

しかし、声望が高まるにつれ、その活躍を阻害する者が現れてきた。中上川の見識は正しいものであったが、投資される金額の大きさや用地買収の意義に真っ向から反対する出資者が出はじめたのである。日本初といわれる明治二十三(一八九〇)年の恐慌も経営を圧迫し、中上川には逆風となった。

 

中上川の人生にふたたび大きな転換期が訪れた。そして、そのとき、中上川の人生を変えたのは、またしても井上馨だった。中上川は上京する。井上の推挙によって、三十七歳にして日本一の財閥たる三井の、さらに中心事業である三井銀行の経営責任者に就任するためである。まさに華麗なる転身であった。

 

維新以来、井上は三井と深い交流を持ち、その経営に顧問として参画していた。維新に際していち早く新政府側についた三井は、政府の財政資金の調達に貢献し、産業化政策に積極的に協力する一方、数々の特権を手中にして財閥の基礎を築いた。しかし、旧態依然として政商路線から抜け出る努力をしなかったために、政府要人、政治家からの不利な貸付要求を呑み続け、明治十年代後半には不良債権に苦しんでいた。三井一族は、この危急に顧問の井上に全権を委任、改革者たる人物の推挙を託していたのである。

 

その経緯を白柳秀湖『中上川彦次郎傳』はこう伝えている。

「井上は三井家から改革の事を委任せられて、その實際の衝に當るべき人物を、あれかこれかと物色中、或る日偶然にも汽車のなかで、山陽鐵道會社の社長中上川彦次郎と邂逅した。そのとき井上は、中上川と四方山話の話の末、談たまたま三井家の現状に及び、三井家から一切を擧げてその改革のことを委託せられて居ることを告げ、世間は廣いが、有るやうでないものは人物である。若し君ほどの人物が、二人あるならば、その一人は是非三井家に貰ひうけて、整理の衝に當ってもらひたいがと嗟歎した。(略)中上川は井上の話をきいて、それほどまでに私を知り且つ私を信じて下さるならば、山陽鐵道の方は辭退をして、何時でも貴下の御推薦で三井家の方に參りませうといふことになり、井上も意外の快諾に驚き、且つ喜び、直に中上川を三井家に推薦して、非常の大改革を斷行させることとした」

 

中上川にとって井上の声は天の声と聞こえたのではないだろうか。

 

大舞台三井での改革断行

明治二十四(一八九一)年八月、中上川が上京して、新橋の停車場に降り立ったとき、先に三井入りしていた知人が一人いただけで、三井の幹部たちの出迎えの姿はどこにもなかった。いかに井上の推挙があろうとも、また一族や社員たち自らが改革の要を感じながらも、彼らは中上川に対して決して心を開いていなかったのである。とりあえず理事として遇され、銀行業務を覚えたあと翌二十五(一八九二)年に副長に就任(のちに専務理事に職名が変更)、いきなり実質経営の権限を握る。そこからはじまった中上川の改革はだれもが驚くほど大掛かりで、妥協を排し、徹底した信念のもと、実行されていった。

 

中上川がめざしたのは、真の資本主義原則に基づき、ビジネスとしての合理主義を根づかせることだった。

 

順に述べると、まず従来の政商路線を完全にあらためた。御用金を取り扱うことで三井は信用を得て成長してきた。その陰で、政府高官との不正な癒着もまた断ち切れなかった。銀行内にはだれが名づけたのか「地獄箱」というものがあった。これは、上は大臣、知事から下は下級官僚までの借用書、領収書の類であった。職権濫用によって三井から金をせびり取った不正融資の記録、無論これらのほとんどは不良債権と化していた。そうした事態になるのは、御用金取り扱いに甘んじているからだ、と中上川は御用金取り扱いを辞退すると発表した。周囲が呆然としているなか、また三井家内部からの猛反対にも屈せず、速やかに不必要な支店を閉じ、事務を整理してしまったのである。

 

中上川はこう言った。「取付に對して支拂の義務を負ふ預金は、借金と何の異るところがあるか。借金を以て銀行營業の根本政策となすが如きは愚の骨頂である」(同前)。つまり、政府の御用金を預かることは、政府から借金をすることである。三井のごとき金持ちがなぜ借金をする必要があるのか。政治家の鼻息を窺ってわずかな利益を収めるやり方は、本来の三井のやり方ではないというのである。

 

次なる改革は不良債権の回収である。これにも中上川は容赦なく立ち向かった。なかでも、東本願寺への徹底した督促は、信徒をして仏敵といわしめた。差し押さえに対して、必死で哀訴する東本願寺側。しかし、中上川は「阿弥陀如来の差し押さえをするやも計られざれば」(砂川幸雄『中上川彦次郎の華麗な生涯』)と突っぱねる。やむなく東本願寺は、地方別に目標金額を定め、全国四百万の信徒に募金を呼びかけた。その効果は抜群だった。目標額を大幅に超え、三井銀行への返金はおろか、頓挫していた阿弥陀堂や祖師堂の改修資金さえ調達できたのである。

 

そのため、東本願寺の執事がわざわざ中上川に礼を述べに来たほどであった。そのとき、中上川が「仏敵中上川は地獄入りと思いたるに意外にも功徳を積みて極楽に入れますかな」と執事に問うと、彼は苦笑して、「必ずこれを請け合います」と言ったという。

 

さらに中上川は、財閥にとって弱いとされていた鉱工業分野への進出を志し、芝浦製作所、鐘淵紡績、王子製紙などを傘下に収めたほか、慶應義塾から藤山雷太、武藤山治、日比翁助といった有能な人材を登用して革新に富む社風を創り、三井同族を含めた組織改革にも乗り出した。しかし、改革が進むほど、三井内部からの反対の声が大きくなり、中上川は次第に苦境に立たされるようになった。

 

闘いの果ての死

中上川は三井入りして八年経った明治三十二(一八九九)年秋、腎臓病を発病する。以降、三井財閥のもう一つの大きな事業、三井物産を率いる実力者益田孝との軋轢、さらに自らを三井に導いた井上馨からも排斥の動きが出てきて苦慮する。あまりに中上川の改革が急進にすぎることに業を煮やし、井上は冷酷にも中上川潰しに鞍替えしたのだった。

 

「政事家、いわゆる水草の生涯なるものなり……」。ロンドンでの遊学時代に記したことを中上川はどう回顧したであろうか。

 

明治三十四(一九〇一)年十月七日、中上川は二月に亡くなった福沢のあとを追うように腎臓病悪化のため死去する。四十七歳の若さであった。

 

与えられた舞台に経営者人生を賭けられるかという選択に、中上川はつねに挑戦する決断をした。恵まれた教育環境とそれに応えられた才能、運命の出会い。その運命に潔く挑んだのは、男子の本懐ともいうべき健全な野心と、近代資本主義の浸透という大きな使命感が後押ししていたからではないだろうか。プロ経営者の先鞭として中上川の存在を忘れてはならないだろう。

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

  


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