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石橋正二郎、素材と需要を巧みに結びつける

石橋正二郎、素材と需要を巧みに結びつける

(2012年5月 7日更新)

 
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素材と需要を巧みに結びつける発想と、産業報国的精神に根ざした事業選択で、世界に冠たるタイヤ産業を育てた石橋正二郎。その決断の原則に迫る。

 

* * *

 

九州の片隅で、わずか十七歳で家業の仕立物屋を継いだ少年が、数十年の実業の時を経て、世界に冠たるタイヤ産業のリーダーになり得たのはなぜだろう。石橋正二郎が行なった経営は、まれなる幸運によって成り立ったわけでも、過去の遺産にすがりついたわけでもない。成長の陰にはつねに挑戦する姿勢があった。

時代の流れを先取りし、見事に筋が通った美しい経営の進化。その過程で貫かれていた決断の原則を考える。

 

学業を断念、十七歳で家業を継ぐ

石橋正二郎が生まれて初めて自動車に乗り、タイヤの上に身を置いたのは、明治四十五(一九一二)年の東京である。

売上げ好調な家業の商品「志まやたび」の営業のために久留米から出てきた石橋は、赤坂の自動車店で思わず足を止めた。九州にはまだ一台も走っていない輸入自動車が目の前にある。しばらく見とれていると、そこの店主が気前よく、試乗させてくれたのである。その快適さに石橋は感激した。

ただしそのとき、石橋の頭にひらめいたのは、この新しい文明の利器を足袋の宣伝に使おう、ということであった。タイヤ業界への進出など、この頃にはまるで念頭になかった――。

 

石橋は明治二十二(一八八九)年、福岡の久留米で、仕立物業を営む一家の次男として生まれた。従順な性格で虚弱だったが、ずば抜けて成績がよかった。

久留米商業学校に高等小学校三年から進学を許されたほどで、石橋本人も教師も、さらに上の神戸高等商業学校(現・神戸大学)への進学をめざした。しかし頑強に反対したのは病弱な父であった。学校長まで説得にあたったが、父は聞き入れようとしない。進学をあきらめた石橋は、すでに父に代わって家業を取り仕切っていた兄重太郎とともに、実業の道を歩むことになった(のちに兄は地方政治家に転身)。

 

「私は、一生をかけて実業をやる決心をした以上は、何としても全国的に発展するような事業で、世のためにもなることをしたいと夢に描いていた」(『私のあゆみ』)

 

果たせなかった進学を無念に思う気持ちはあったが、石橋は冷静に受けとめ、目標を切り替えた。この素直さ、柔軟さは経営にも随所で生かされていく。

 

明治三十九(一九〇六)年三月、石橋はわずか十七歳であった。

 

仕立物屋から足袋専門業者へ

ほどなく兄が徴兵によって店を去ったため、店の経営はにわかに石橋一人の肩にかかった。店のすべてを自分なりに眺められるようになると、石橋はいろいろな疑問に突き当たった。

 

――なぜ仕立物屋は八、九人の徒弟しかいないのに、シャツからズボン、脚絆、足袋までつくるのだろう。

 

――従来、徒弟たちは仕事を教えてもらうから無給で働くというしきたりだが、不満はないのだろうか。

 

石橋は、生活必需品としてもっとも需要の多い足袋に専業化し、機械を入れて分業体制にした。同時に、徒弟たちに給料を与え、労働時間を短縮した。

 

当時の商家では類を見ない大改革を、十八歳の石橋は淡々としてやってのけた。別宅で隠棲していた父は報告を聞いて、「長年の家業をやめた上に、徒弟に給料を払うなんて。タダで使っていたからこそ利益もあったのに」と激怒した。しかし、合理化によって大量生産が可能になったことと、給与制によって徒弟たちの意欲が格段に上がったことの相乗効果がはっきり表れると、父は息子の見識が正しかったことを認めた。

 

明治四十二(一九〇九)年には年間二十三万二千足を製造、七千円の純益を上げ、その父は大いに快哉を上げたが、年が明けた二月に早世した。石橋の経営は、家業の伝統や従来の雇用形態に捉われない、徹底した合理主義によって進められていったのである。 

 

卓越したマーケティング・センス

順調なスタートを切った商標の「志まやたび」だったが、全国レベルで見ると足袋メーカーとしては地方の一角を占めるにすぎない。石橋は少ない広告費を有効に使う手立てに腐心した。看板も復員した兄と一緒に自製した。

 

冒頭の自動車との出会いはそうしたなかで偶然もたらされたものであったため、石橋にとって自動車は、宣伝のための利器としか見えなかったのである。久留米に戻ると、すぐに兄に自動車の購入を提案、了解を得ると再度上京し、スチュードベーカーを買った。値段は二千円。当時保有していた機械設備の総額とほぼ同じである。明るいノリで判断した買い物だが、その重みは社運を賭けるほど莫大なものであった。

 

しかし、自動車による宣伝効果は絶大であった。スチュードベーカーに幌を付け、造花と「志まやたび」の幕で車体を飾り、旗を立て、車上から宣伝ビラを配ると、道行く人は、「馬のない馬車が来た!」と喚声を上げた。大評判となって、結果的に石橋は、「安い広告費だった」と述懐している。

 

宣伝の次は、価格戦略とブランドの構築である。当時、足袋の価格というのは、大きさ、いわゆる「文」数によって異なり、大きい足袋は小さい足袋よりも高かった。そうした価格の違いによって価格表はいつも手放せない。取引も煩雑である。

 

市電に乗ったとき、石橋は、市電がどこまで行っても五銭であることに気づいた。そして、足袋との違いは何かを考えた。仮に均一の価格にして、不自由な点はあるだろうか。取引の業務は簡略になるし、有意義なことはあっても別段不利益になることもない。そう判断した石橋は大小にかかわらず、均一価格にした。

 

同時に、商標についても見直した。「志まや」はあまりにも古臭いと思っていたのである。「旭日昇天」という験のいい言葉から「アサヒ」を取り、“波にアサヒ”のマークをつくって、「二〇銭均一アサヒ足袋」と銘打った。

 

ちょうどその頃、第一次世界大戦が勃発。経済の不安定から経営の舵取りに苦心する同業者をよそに、アサヒ足袋は年間二百万足の売行きを記録、「志まや」は足袋業界の四天王の地位についた。

 

そして、大正七(一九一八)年に法人化して、「日本足袋株式会社」を資本金一〇〇万円で設立、すでに業界一位となっていた。

 

ゴムとの出会い――地下足袋そしてタイヤ

ゴムという素材ほど石橋の人生と経営を変えたものはないだろう。石橋がゴムを求めたのは、従来の足袋を進化させた画期的な発明品「地下足袋」のためである。

 

通常のわらじは耐久性がなく、一日で一足を履きつぶしてしまう。わらじの補給に費やす金額は、人びとの生活費を圧迫していた。それならば、足袋の下にゴムを付け、そのまま履物にすればよい、という発想である。

 

最初、石橋は岡山、広島のゴム会社からゴム底を買い入れて加工するという方策を採った。しかし、すぐにこれでは採算が合わないと見切って、社員をゴム会社に派遣して技術を習得させ、自製することにした。のちにタイヤ事業を選択することを思えば、重要な決断であったといえよう。

 

地下足袋を成功させた石橋は、さらにゴム靴を開発。ゴム靴は高品質のうえ廉価で、日本国内のみならず、中国、東南アジアからインド、イギリス、アメリカ、フランス、ベルギーまで出回った。

 

タイヤ事業進出を宣言したのは、昭和六(一九三一)年である。当時、国産車の生産はまだ五万台であり、タイヤはすべて輸入品だった。

 

――いずれ国産車の生産は増大する。それに併せてタイヤの消費も拡大するだろう。その時代に備えて純国産タイヤをつくる必要があるのではないか。

 

石橋のタイヤ事業選択は、社内においても危惧する声が多かった。技術的課題は大きいし、市場参入への道のりも見当がつかない。しかし、ゴム研究の先覚者であり、九州大学教授の君島武男の「研究費に百万、二百万を投じる覚悟があるならば協力しましょう」との言葉に、石橋は即決した。現在のブリヂストンの発展はこの瞬間からはじまったといえよう。

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

   


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