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中島知久平、気宇壮大な企業家の心意気

中島知久平、気宇壮大な企業家の心意気

(2012年6月 4日更新)

 
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昭和十六(一九四一)年四月、中島飛行機の太田飛行場では技術者たちが四発エンジン機の開発に苦慮していた。折しも東京から大社長(社長は実弟が務め、通称このように呼ばれていた)である中島知久平が見分に訪れ、その前でさまざまな試験が行なわれた。

 

すべての行事が終わって、和やかな雑談の時間になったとき、若い技術者がエンジン開発のむずかしさを延々と述べ立て、座が一気に緊張した空気に変わってしまった。このとき、中島はやおら口を開いて、次のように言った。「そうか、君は四発エンジンの飛行機の開発で困っているのか。わしはな、将来百発エンジンの飛行機をつくろうと思っているんだよ」。その言葉は、周囲を笑わすと同時に、あらためて気宇壮大な企業家の心意気を感じさせ、安易に障害に屈してはならないという戒めとなって技術者たちの心に響いたという。

 

ただ当時、すでに中島は政党の総裁でもあった。そうすると、経営に復帰するのか、政治家のままオーナーとして指導するのか、その真意はどこにあったのか――。馬賊を志し、軍人となり、飛行機王と呼ばれ、大臣にもなったキャリアは何を以て貫かれていたのであろうか。

 

中島知久平の不思議

一人だけのリーダーシップで産業を創造し牽引した――語弊があるのを承知で言うならば、徒手空拳で独立した中島知久平にはそんなイメージがある。それだけ中島には、強い企業家精神が宿っていたのであろう。

 

ただ中島は行跡、キャリアからすれば不思議な人物である。家出をしてまで軍人を志し、その軍人を辞めて企業家となり、またその事業を捨てて、政治家に転身する。しかも一政治家の域を越え、大臣、政党党首にまでなってしまう。猪突猛進的なのか、深慮遠謀を企む策略家なのか、表面上捉えにくい。

 

さらに時代性を抜きに中島を評することもまたむずかしい。当時の飛行機はすなわち軍用機である。中島飛行機といえば陸軍の一式戦闘機(通称「隼」)が有名だが、三菱設計の「零戦」も中島飛行機がもっとも大量に生産した。太平洋戦争期間中の中島飛行機製作所の生産機体数は一万九千余機(創業から閉鎖までの生産機体数は約二万六千機)で、三菱重工業の一万二千余機を大きく上回り、日本最大であった。

 

中島飛行機の成長要因は、軍需の後押しがあったこと、そして中島もまた軍需を予測して対応したことにあったといえる。いずれにせよ軍とともに中島飛行機は栄え、滅んだのである。このことも、中島の評価を複雑にしている。A級戦犯に指定されたこと(のちに解除)が、世間の評価を低くしたことは否めない。

 

こうした中島の悲劇性に対する遺憾の思いからか、中島に関する伝記、評伝においては、ナポレオン、西郷隆盛と比肩し得る英雄的要素を持った人物であり、なおかつ相当な見識者であるとして、その再評価を求めているものが多い。

 

(次回につづく)

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

 


 

 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

 

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長
専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。     

 

 

  


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