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中島知久平、決断力と勇気

中島知久平、決断力と勇気

(2012年6月14日更新)

 
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軍人-飛行機王-大臣。このキャリアは、何を以て貫かれていたのであろうか。自分の天分を国事に生かした烈士・中島知久平の決断の背景に迫る第2回。

 

無鉄砲さにひそむ戦略的思考

中島は明治十七(一八八四)年、群馬県新田郡尾島の農業父粂吉、母いつの長男として誕生した。小柄ながら腕力があり、相撲が強かった。しかし、いじめも自慢もしなかったので皆から親しまれて、「知久平ヤン」(ヤンはこの地方の愛称のつけ方)と呼ばれ、それがなまって “チッカン”と呼ばれた。十二歳の中島少年の夢は、満州に渡って馬賊になり、ロシアに攻め入ること。日清戦争後、三国干渉によって日本がロシアから圧迫を受けた時代の趨勢に影響されてのものだった。

 

「軍人になりたい!」という進路も、そうした意識が選択させた。ところが、障害が生じた。中島の祖母セキは、「農家の長男は農家の仕事を継げばよい」という保守的な考え方で、軍人になるには必須の中学受験に真っ向から反対したのである。セキは旧家のゴッドマザー的存在で、家人のだれも逆らうことができなかった。それゆえに中島は家出を決断する。

 

表面上素直に引き下がっていた彼は、明治三十三(一九〇〇)年四月、神棚にある一升枡の中にあった藍玉の売上金を持ち出し、東京へ遁走する。同郷で軍人になっている知人を訪ね、独学で検定試験(専検)を受け、苦学を断行する旨を打ち明けた。実家は大騒ぎとなったが、とりなしを知人に頼み、中島は一度も帰郷することなく以降二年間、受験勉強に精を出すのである。

 

もう一つ中島の人間性を示すエピソードは、出奔する前の十六歳の頃、泥棒を撃退した事件である。両親が不在の夜、家に金銭目当ての賊が入った。気配に気づいた中島は、寝ていた祖父母や幼い弟たちを起こさないように身支度し、長押に掛けてあった先祖伝来の宝槍を取った。そして、茶の間で物色している賊に近づき、「コラッ!」と一喝した。度肝を抜かれた賊は、思わず目の前の階段を駆け上がり、物置である中二階で立ち往生してしまった。槍を構えて凄みをきかせているところに、両親が帰ってきて、父の粂吉が、「何をしている!」と尋ねると、中島は平然と、「泥棒が中二階に逃げ込みました」と答えた。

 

興味深いのはその後の粂吉の行動で、彼は「あ、そうか。よしよし」と言って外へ出ると、ふたたび戻って階段の下から、「泥棒さん。窓に外から梯子をかけてきたから」とやさしく声をかけ、「知久平、もう遅いから寝るべえ」と寝室に入ったという。粂吉も並はずれた神経の持ち主だったといえよう。

 

この二つの話から、中島が決断力と勇気の持ち主であることがわかる。ただ、それだけではない。家出後の東京暮らしではこんな裏話がある。経済的にかなりの耐乏を余儀なくされたが、中島はけっしてアルバイトをしなかった。夜は人力車夫をしたという俗説があるが、中島はそういう苦学は非能率的だとして、勉強以外しなかった。神棚から失敬した持参金を倹約してそれだけを使ったという。つまり、当初から当座の金ではなく、あえて大金をつかんで家を出たのである。

 

父粂吉は中島の家出を知って動転したが、すぐに冷静になり、「チッカンは只者ではなかった」とその行動に理解を示した。おそらく、中島は祖母セキに頭が上がらない父の立場を察し、ひそかに父の理解を得られる確信を持った上で、すべて計算ずくで家出をしたのであろう。このように中島には、優れて先を見通す力が具わっていた。

 

粂吉は中島の行動を支持すると、逆に積極的に助言を惜しまず、当初、陸軍士官学校志望だったのを、島国日本の国防上、海軍の重要性を主張し、海軍志望に転向させた。

 

結局、中島は海軍機関学校の受験に成功する。

 

 

(次回につづく)

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

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渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ)

 

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長
専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

   


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