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中島知久平、民間企業による飛行機製造を志す

中島知久平、民間企業による飛行機製造を志す

(2012年6月22日更新)

 
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将来の約束された地位を捨て、民間企業による飛行機製造を志した中島知久平。中島が決意した最大の理由は、生産性の高さでした。烈士・中島知久平の決断の背景に迫る第3回。

 

すべては飛行機のために

飛行機への思いは、機関学校二年次に生じた。直接的には、ロシア征伐のために大陸に渡って馬賊となるといういささかヒロイックな夢が、日露戦争の終結によって消失してしまったことがきっかけであった。対ロシア勝利に浮かれた世間とは対照的に、目標を失って中島は茫然としていた。そんななか、飛び込んできたのが明治三十六(一九〇三)年に世界中に伝わったライト兄弟の飛行機初飛行のニュースであった。飛行機という利器は中島の興味を大きくかき立てた。以降、あらゆる機会を捉え急速に知識を吸収していく。そして、中尉任官時(明治四十二〔一九〇九〕年)にすでに、「飛行機の時代が来る」として、飛行機による爆弾投下・水雷攻撃が戦略の主流になると主張した。太平洋戦争時の戦法を二十年前に予見し、これから日本は飛行機の国内生産を拡大しなければならないと確信するに至ったのである。

 

目標が定まると、その実現に向けて、中島はすべての努力を飛行機研究に費やしていく。ドイツの雑誌を参考に鷲の飛行法の研究をはじめる。海軍士官の任務に就きながら、堂々と、軍費を軍艦に回さず飛行機開発に割くべきだと上官に訴える。同僚の、「上層部の決定に対して、生意気をいうべきではない」との忠告には、「大なる道徳を為すには、小なる道徳は無視してもよいと思う」と答える始末。

 

乗艦していた巡洋艦「生駒」がイギリスに派遣されると、中島は本来の任務を放棄し、一人フランスの航空界の視察を申請。ゴリ押しで視察すると、またその見聞をもとに、「飛行機が戦艦を雷撃して沈没させる時代が来る」と吹聴した。こうして、一機関中尉でしかない中島は海軍内で、誇大妄想の飛行機狂として有名になった。しかし、上層部もそうした認知によって、中島を飛行機研究に近づけさせたのは言うまでもない。

 

軍用気球の研究への参加を命じられると、飛行船の操縦を習い、日本で二人目の操縦に成功。明治四十五(一九一二)年に、海軍最初の航空研究機関である「海軍航空術研究委員会」が発足すると委員に選ばれ、アメリカへ研究派遣を命じられる。 

 

ところが、帰国時にその行動がまた問題になった。中島は飛行機の製造・整備の研究を使命として渡米したのに、勝手に操縦免許(日本人で三人目)を取得して帰国したからである。上官の詰問に中島は、「製造の研究をすればするほど、飛行士の知識が必要だと気づき、自分が操縦できないものをつくるのは無責任だと思ったのです。本来の任務ももちろん遂行しております」と答えている。

 

以降、国産機開発に携わることができた中島だが、その開発体制には不満だった。海軍の主流は依然伝統的な大艦巨砲主義に固執し、飛行機への理解は低かった。それに、所詮軍部も官僚の巣であり、物事を創造する発想に欠けていた。

 

企業家・知久平の本領

中島が海軍を辞め、「飛行機研究所」を興したのは大正六(一九一七)年のことである。軍人より企業家を優先した一大決断であった。彼のキャリアはそのまま所属していれば海軍中将の地位は確約されていた。それを放棄するという志を理解してくれる人が軍部におらず、退役には応分の懲罰処分を求める声も上がったという。それに本来慣習として、海軍は病気以外の退役を認めていなかった。そのために、彼はあえて花街で遊び、素行を悪くして辞めさせられる努力までした。

 

中島が民間企業による飛行機製造を決意した最大の理由は、生産性の高さである。海軍当局者に挨拶状として送った「退官の辞」は、勇壮の気に満ちた名文だが、そこに中島はこう書いた。

 

「欧米に比べて我が海軍航空界の進歩は、遅々たるもので、その原因は製作が官業であることに由来する。即ち民営においては、一カ年に十二回の改革を行ない得るも、官営にては、一回にすぎず。欧米の先進諸国が民営で飛行機を製作するのは、この理由による」

 

ただ、このように雄々しく船出した中島飛行機製作所ではあったが、当初は苦労の連続であった。先にも述べたように、軍が積極的に支援してくれたわけでもなかった。

 

そうした苦境にめげず、資金も、人材も独力で開拓したわけであるから、中島には企業家としての資質が充分に具わっていたといえよう。

 

こんなエピソードがある。一つは飛行場用地の取得の話である。広大な敷地を中島は故郷群馬と埼玉の境界線上にある利根川河川敷に求めた。ところがその大部分は両県の県有地だった。中島は東北帝大の機械科にいた弟に設計図を描かせ、両県の村に交渉、借地料を自ら払うとして貸与を申し出る。埼玉県の村の了承を得て、続いて群馬県と交渉。このとき、生まれ故郷の群馬の尾島町は同郷の誼で、無償で貸してもよいと申し出てくれたのに、中島はそれでは公平ではないからと断った。

 

また大正八(一九一九)年、トラクター式四型機の飛行成功によって、陸軍の受注を得て事業の見通しが立つと、資金難にもかかわらず、アメリカ製の発動機百台を百五十万円で購入してしまった。当時の総理大臣の年棒が一千円であることを思えば、途轍もない額で、出資者から非難の声もあったが、二年後、軍の大量受注に見事に対応できた。

 

このように、中島は、ある種の美学を持ち、なおかつ先見力に秀でた企業家であったことがわかる。ついでながら、中島は企業家から政治家に転身したことにより、金権的なタイプの政治家で、その潤沢な活動費も中島飛行機から出たと見られたが、実際はそうではない。彼の活動費はすべて株などの投資活動の見返りで得たもので、事業で得た金を事業以外の用途で使うということはなかった。

  

 

(次回に続く)

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

※バックナンバーはこちら

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

 

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長
専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

    


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