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中島知久平、天分を国事に生かす

中島知久平、天分を国事に生かす

(2012年6月27日更新)

 
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軍人から飛行機王、そして大臣へ。、軍人、企業家、政治家という転身は、明日の国事のために自分をもっとも生かすという愛国心に貫かれていた。自分の天分を国事に生かした烈士・中島知久平の決断の背景に迫る最終回。

 

自分を客観視してキャリアデザイン

さて、中島はのちに政治家へと移るのだが、その真意も含め、人間中島の本質はどこにあると考えればよいのだろう。ここでは二つの点を強調したい。

 

一つは、すべての源泉は愛国心だということである。目標に対して的確な手を打つ中島だが、一方では唐突ともいえる転身を見せる。事業が軌道に乗ってわずか十年で、衆議院議員となったのはなぜであろう。「馬賊―軍人―飛行機製造―代議士」とは、ロマンあふれるものだが貫かれているものがある。それは、今、日本社会で問題視されている“愛国心”にほかならない。軍人であり、軍用機を製造した点で、現代の視点から見れば、国粋主義者的経歴と見られやすい。しかし、イデオロギーによるものではなく、中島の場合、常に現実の国益を追求したという点で、純粋な愛国者であったことは間違いない。すなわち、軍人、企業家、政治家という転身は、明日の国事のために自分をもっとも生かすキャリアにこだわるゆえのことで、過去のキャリアにこだわらないからこそ、成し得た軌跡なのである。

 

二つ目は、本質志向であることだ。航空産業の成立は、技術の融合、巨大な資本、政治性もからむ点、難度が高い。それを一士官から独立して実現した中島の業績は、現代の同業界の現況を見ても信じられないほど大きな成果であったといえよう。いわば卓越したプロジェクト達成能力があったと考えられる。それを導いたのは、先の家出中の勉強法ではないが、目的に即した学習発想ができたからであり、もっと抽象化した表現をすれば、“何をすれば、何ができる”という本質をつねに志向し把握する力に優れていたからではないだろうか。

 

中島は代議士になると、自身の修養のために、政治・経済・哲学に関する四万六千冊の洋書を購入し、スタッフに翻訳や講義をさせた。これをいわば自らの最高の学習法として知識の吸収を図ったのである。

 

また、中島が超人的な予言者だったのは有名である。主だった例には次のものがある。

(1)ソ連の満州侵攻を予言――日ソ中立条約により不信行為はないと信じていた関係当局に対し、「ドイツが降伏すればソ連は必ず満州に侵攻して日本を撃つ」と進言していた。

(2)日米開戦を予言――太平洋戦争が開戦する三年前にその可能性を危惧し、論文を書いて知人に配布していた。

(3)東京大空襲を予言――昭和十七(一九四二)年四月十八日、米軍機B25により初の本土空襲を受けた。空襲恐れるに足らずという世評に、中島は「東京は一年後、焼け野原になる」と明言。武蔵野に別荘を設け、一トン爆弾にも耐えられる地下防空室をつくった。「慌て者の中島」と揶揄する人もいたが、中島の言葉が現実となった。

 

このほか、日本の敗戦時期、米ソの核開発競争、また自らの死期さえ予測した。このことも広範な知識と、本質的な思考法からはじき出した高い見識だったのかもしれない。

 

中島は天性の企業家精神に満ちた人物であった。考えようだが、その本分と愛国心に従ったがゆえに、逆に企業家としては一時期にとどまったといえるのではないだろうか。(完)

 

 

【中島知久平の略年譜】

        1884(明治17)年        1月1日に、中島粂吉、いつの長男として誕生

        1903(明治36)年        海軍機関学校入学

        1909(明治42)年        機関中尉に任官

        1911(明治44)年        10月27日、日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行

                 (日本で2番目の操縦員)、大尉に昇進

        1912(明治45)年        6月、海軍大学卒業、7月アメリカに出張、

                 当地で飛行士免状取得(日本人で3番目)

        1916(大正5)年        ヨーロッパへ航空事情の視察

        1917(大正6)年        海軍を退官、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立

        1919(大正8)年        「中島飛行機製作所」に改称、陸軍から20機を受注

        1930(昭和5)年        衆議院議員選挙に当選

        1931(昭和6)年        所長を弟喜代一に譲る

        1938(昭和13)年        鉄道相に就任

        1939(昭和14)年        所属していた政友会が分裂、政友会革新同盟の総裁に就任

        1941(昭和16)年        中島飛行機の一式戦闘機「隼」、陸軍に正式採用

        1945(昭和20)年        終戦直後の東久邇内閣で軍需相、商工相に就任。

                 GHQによりA級戦犯に指定

        1947(昭和22)年        A級戦犯指定解除

        1949(昭和24)年        10月29日、脳出血にて急死 

 

 

※バックナンバーはこちら

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

 

 


 

渡邊祐介(わたなべ ・うすけ)

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長
専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

 

 


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