階層別教育のご提案

公開セミナー・講師派遣

通信教育・オンライン

DVD・テキスト他

出光佐三の決断~貫き通した人間尊重の経営

2019年7月 5日更新

出光佐三の決断~貫き通した人間尊重の経営

終戦直後、多くの有力な企業が生き残りのために人員整理に走る中、出光佐三は社是として掲げていた「人間尊重」の方針を曲げることはなかった。幾度もの苦難を、努力と人間愛で乗り切った出光佐三の決断の背景に迫る。

戦争によって、体を成さない社の状態、膨大な借金。多くの有力な企業が生き残りのために人員整理に走る中、出光佐三は社是として掲げていた「人間尊重」の方針を曲げることはなかった。海外から復員してくる社員たちを路頭に迷わさず、しかもこの窮状を耐え忍ぶ方法はないか――。幾度もの苦難を、努力と人間愛で乗り切った独自の経営哲学とは......。

終戦後の混乱の中で

昭和二十(一九四五)年九月十五日。終戦からちょうど一カ月が経ったこの日、出光佐三は本社に重役と社員たちを集めて、こう宣言した。

「事業は失われ、借金は残っている。しかし、出光興産には海外に八百名の人材がいるではないか。これが唯一の資本であり、これが今後の事業をつくる。"人間尊重"の出光興産は、終戦の混乱に慌てて馘首してはならない!」

社員たちの胸のうちに感動の波が押し寄せた瞬間だった。だが、実のところ出光の胸中には、人員整理をせずに事業を再建する青写真など何もなかった。だから会社の窮状を知る幹部たちは、出光の頭がどうかしたのではないかと思い、直後の会議の場でその不可能なことを口々に訴えた。

出光はどなり返した。

「一時の酔狂で言ったのではない。兵隊に行った者もいるが、そうでなくとも戦時の危険も顧みず社員が仕事に命を投げ出しているのは、おれと会社を信頼してくれたからだ。今、土壇場だからといって、社員たちを見捨てることができるか!」

そして、ぽつりと付け加えた。

「会社がいよいよだめになったら、みんなと一緒に乞食をしよう」

巷では出光のこの決断を「彼は狂った」と揶揄した。その噂が広まって出光の知人友人らも本気で自殺の心配をした。ついには報道関係にまで伝わり、とうとう出光佐三自殺説が流れた。

狂気を疑われるまでの決断、いったい何が出光の決断を支えたのだろうか。

訪れた危機

出光佐三は、明治十八(一八八五)年、福岡県宗像郡で生まれた。家は染色の藍を仕入れ、織物業者に卸す商売を営む資産家の類であった。元来病弱であった上に、小学校二年の時に、草の葉で目を傷つけたのがきっかけで、弱視になってしまう。成績は芳しくなくなったが、かわりに反骨の精神が磨かれ、意志の強い性分に育った。

二十一歳で神戸高等商業学校(現・神戸大学)に合格。ここで商売についての先進的な知識を学んだ。

卒業して酒井商店という商社に入社した。そこは、従業員わずか三人、小麦と機械用潤滑油を扱う零細企業だった。神戸高商出なら大手の商社など、もっと有利な就職口はいくつもあった。しかし、この頃から独立の志を持っていた出光は、大企業より零細企業に就職したほうが実地経験として有効だと考えていたのである。

早く仕事を覚え、資本さえ集まれば独立も可能、そう思っていた矢先、思いがけない状況になった。商談のついでに立ち寄ってみると、実家が非常事態になっていたのだ。藍の商売はやめて店は閉じられている。父母は別居状態、それぞれ雑貨商や味噌工場で細々と生計を立てているという始末。高商在学中から仕送りが滞るなど兆しがあったことを、出光は今さらのように思い出し、悔やんだ。ただ、こうなった以上、一家を背負って立つために独立を早め、なおかつどうしても成功しなければならないと強く思った。

石油業で身を立てよう――出光は早々に事業を選択していた。卒業論文で石炭と石油の比較を行なったのがきっかけである。採掘に労力がかからず、輸送の負担が軽く、煤煙もなく、管理の容易な石油がいずれ石炭を駆逐するに違いない――それが出光の結論だったのだ。自らの予見を信じて事業を成功させたい、いつしか出光はそう願うようになっていた。

問題は資金であった。じっくりと貯めるつもりであったが、家庭の事情が猶予を許さなくなった。出光は思い悩んだ。そんなとき、出光にとって生涯の幸運が一時に集中したような、奇蹟が起こったのである。

創業の幸運

神戸高商時代の知人日田重太郎がふらりと出光を訪ねてきたのだ。日田は出光の九歳年長で、淡路島の資産家の養子である。いわゆる高等遊民の類で、資産があるので定職にも就かず、悠々自適の生活をしていた。日田の息子の家庭教師を務めたことが機縁で二人は親しくなったのである。

日田は学生時代の出光の物腰を見ていて、その資質を嗅ぎ取っていたのであろう。たとえば、家庭教師としての出光の厳格ぶりは親ですら見ておれぬほど厳しいもので、一切の妥協がなかった。息子が中途でさじを投げることをけっして許さなかった。まさに筋金入りの精神である、と日田は評価していた。

さらに目を見張ったのは、やはり出光の就職の選択であった。最高学府を出ながら、優等生の出光が自ら丁稚となり、自転車で集金にかけ回っている。出光見たさに酒井商店に何度か出向いたこともあった日田は、いつも気後れすることなく、前垂れのはっぴ姿で堂々と働いている出光を見て、(こいつは大志を持っている! 投資に値する男だ)と確信していた。

たまたまその日、日田は、宝塚まで遊びに行こう、と出光を誘った。日田は道々平素抱いていた出光への思いを口にした。そして続けて、京都に保持している別邸を八千円で売るつもりであると告白し、「かねてから君も独立したいと思っていたんだろう。それならば売却で得る八千円のうちの六千円を独立資金にやろう」と言った。

出光の驚きは尋常ではなかった。まして背に腹は替えられない切迫した中での話である。不気味なほどタイミングがよすぎる。また人の好意とはいえ度がはずれている。にわかに信じがたい。いったんは断ろうかとも思ったが、結局出光は出資をありがたく受けた。そして、その金によって北九州の門司で機械油を扱う会社を創業した。出光興産の誕生である。人生の不可思議な巡り合わせから誕生した会社ともいえよう。

「人間尊重経営」と独自の商人観

出資に際して、日田は条件を出した。

一、従業員を家族と思い、仲よく仕事をすること
一、自分の主義主張を貫くこと
一、自分(日田)の出資を秘すること

というものだ。

日田が出光を見込んだように、この日田の崇高な考えに出光は傾倒した。そして、ひたすらに、一生をかけて事業を追求しようと、決心したのである。

出光が基本方針として「人間尊重」を掲げ自主独立の精神を持って経営に邁進したのは、奇特な志から金を提供してくれた日田との約束に基づく、固い誓いがあったからである。

したがって、いかに戦後の混乱期といえども、企業存続のために人員整理を決行するという策を採ることは、出光の選択肢には天地が引っくり返ろうともあり得なかったといえよう。

ただし、出光が日田との約束を裏切った項目が一つあった。昭和十五(一九四〇)年、会社設立にあたり出光は従業員に日田が出光興産の恩人であることを語り、その陰徳の精神に学ぼうと呼びかけたのだ。日田への恩義をどう形に表せばよいのかを深く考え続けた出光は、最後の一項は破らずにはいられなかった。

そうした経営者の倫理に対して出光に大きな示唆を与えていた人物があと二人いる。神戸高商の恩師たちだった。

一人は神戸高商校長の水島銕也である。水島は平生から、「実業に進むならカネの価値を尊ぶのはもちろんだが、カネの奴隷になってはならない。そして士魂商才を持って事業を営むように」と説いていた。その考えは、日露戦争の勝利でバブルに酔う世相に対して、警告を発するものであった。商いの心を顧みる者が少ない中、出光は感銘を深くした。

もう一人は「商業概論」を担当していた教授の内池廉吉である。内池も商人の倫理観に問題意識を持っていて、出光ら学生たちに、「これまでの、ただ物を動かして利ざやを取るだけの商人は不要になる。これからの商人は、生産者と消費者を直結して、その中間に立ち、相手の利益を考えながら物を配給するべきだ」と提唱していた。この考えにも出光は共鳴した。

このように出光の哲学の背景には、日田重太郎との約束が「人間尊重」の経営のバックボーンとしてあり、水島銕也と内池廉吉の教えによって、経営者・商人としての高い倫理が築かれていったといえよう。

常識破りの経営道

戦後の混乱にあって、人員整理をせず、雇用を守るということ。言葉としては格好がいいが、しのいでいるさまは悲惨であり、ぶざまであった。

出光は戦前戦中に集めた書画骨董を売りに出した。もちろん、社員を食わせるためである。社員の生活を養うために借金もした。毎日、復員してきた社員が顔を出す。出光は一人ひとりにねぎらいの言葉をかけるが内情は火の車である。破綻は時間の問題であった。石油事業を再開させるのが急務であり、そのために配給業者指定を申請したが、許可はなかなか下りなかった。

なぜか。そこには、出光興産の戦前の経営手法が大きく影響していたからである。日田が出光を見込んだ信念の強さ、それが業界においては挑戦的な行動と見られたことが多々あった。そのふるまいが尾を引いて、官界も含めて出光イジメの傾向となっていたのである。

出光の信念は時に独創的な行動を呼んだ。たとえば創業期のこと、漁船相手の機械油の売り込みに精を出したが、業界の閉鎖的な縄張りのためによく営業妨害に遭った。出光は怒りまくり、それならば海上で取引すれば文句はなかろうと強引に実行したことがあった。このため出光興産は同業者から「海賊」と呼ばれたことがあった。

その後、満州鉄道の車軸油を独占的に扱って、出光興産の大きな飛躍の足がかりとしたが、戦時体制のため、活動に統制が入りはじめると、出光は国策に納得がいかなくなった。このときも、軍を相手に噛み付いたりした。こうしたことから、国の印象を悪くして、何のいわれもなく「国賊」と呼ばれたこともあった。出光は己の信念を貫くあまり、正しいながらもあぶない駆け引きを何度も経験してきたのである。

本業の見通しが立たず、それでも社員の仕事を確保するため、鳥取の大山山麓での農場経営、茨城での醤油の製造、三重での定置網漁、東京での印刷業等のほか、ラジオ修理業にも手を染めた。いずれもその場しのぎの苦しい事業運営であった。昭和二十四(一九四九)年、ようやく石油の元売り業者に名を連ね、本業を軌道に乗せる足がかりができた。

そのほか、出光の独創的な行動として、昭和二十八(一九五三)年に自社タンカーの日章丸でイラン石油を輸入したことも、「事件」としてマスコミを賑わした。イラン石油の利権をめぐって英米が神経を尖らせている時機に、国際カルテルの支配の壁を打ち破るべしとして、拿捕の危険を顧みずタンカーを遣わしたのである。また、昭和三十八(一九六三)年には、石油の生産調整を認める石油業法成立は自由競争を妨げるものだと反対し、石油連盟を脱退してしまった。これも生産調整が廃止されるまで続いた。

哲学の時代性とは

信念の経営は筋が通っていてたしかにすばらしい。しかし、独自の信念を貫くことは、経営においてつねにプラスに作用するとは限らないという見方もある。

「人間尊重」の一環として、社員の自主性や裁量の自由を重んじ、出光興産では、労働組合も、出勤簿も、定年制もつくらずにきた。また出光は、株式会社化することさえ渋々であった。社員だけで分かち合いたい利益を、縁もゆかりもない株主になぜ配当しなければならないのか。また、株式会社にすると、責任が分散するし、事業家というよりも資本家となってしまって、労働者と対立する立場になってしまうからよくない、というのが出光の考え方であった。非上場を貫いてきたのもその意に添うためである。そうしたこだわりの背後では合理性との葛藤が否応なしに繰り返されたはずである。

しかし、そうした葛藤を差し引いても、いや葛藤があったればこそ、出光の"難にありて人を切らず"の英断は、まさに企業の「人間尊重」を象徴する出来事であり、出光興産社史上の輝かしい瞬間であったといえるだろう。 

ただ、時代は移り変わっている。経営システムのグローバル・スタンダードの風潮が、「人間尊重」の修正を余儀なくしている。就業意識も格段に違った世の中である。出光佐三は昭和五十六(一九八一)年、九十五歳で大往生を遂げる。今もし出光がこの時代に生きていれば、自らの思想哲学をどのように問い直すのであろうか。

出光佐三の略年譜

1885(明治18)年 福岡県宗像郡赤間町に生まれる
1909(明治42)年 神戸高商を卒業
1911(明治44)年 北九州門司に出光商会を創設
1914(大正3)年 出光商会、大陸に事業を伸展。満州鉄道に機械油の納入を開始
1929(昭和4)年 朝鮮における石油関税改正のために奔走
1933(昭和8)年  門司市商工会議所会頭に就任
1937(昭和12)年  貴族院議員に選出
1940(昭和15)年 出光興産設立。社長に就任
1945(昭和20)年 終戦において社員を鼓舞。種々の事業によって窮乏をしのぐ
1946(昭和21)年 国内市場を国際石油カルテルの独占から守るべし、と政府に建言
1952(昭和27)年 アメリカから高オクタン価ガソリンを輸入。国内製品の品質向上、価格の低下をもたらす
1953(昭和28)年 社運を賭してイランから石油を直輸入
1957(昭和32)年 徳山製油所完成により、輸入、精製、販売を一元的に経営
1966(昭和41)年 会長に就任。出光美術館開館
1972(昭和47)年 会長を退任
1981(昭和56)年 死去。95歳


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

経営セミナー「松下幸之助経営塾」ただ今塾生募集中

新着記事経営者/幹部育成

×