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出光佐三、貫き通した人間尊重の経営

出光佐三、貫き通した人間尊重の経営

(2012年7月 5日更新)

 
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終戦直後、多くの有力な企業が生き残りのために人員整理に走る中、出光佐三は社是として掲げていた「人間尊重」の方針を曲げることはなかった。幾度もの苦難を、努力と人間愛で乗り切った出光佐三の決断の背景に迫る。

 

*  *  *

 

戦争によって、体を成さない社の状態、膨大な借金。多くの有力な企業が生き残りのために人員整理に走る中、出光佐三は社是として掲げていた「人間尊重」の方針を曲げることはなかった。海外から復員してくる社員たちを路頭に迷わさず、しかもこの窮状を耐え忍ぶ方法はないか――。幾度もの苦難を、努力と人間愛で乗り切った独自の経営哲学とは……。

 

終戦後の混乱の中で

昭和二十(一九四五)年九月十五日。終戦からちょうど一カ月が経ったこの日、出光佐三は本社に重役と社員たちを集めて、こう宣言した。

 

「事業は失われ、借金は残っている。しかし、出光興産には海外に八百名の人材がいるではないか。これが唯一の資本であり、これが今後の事業をつくる。“人間尊重”の出光興産は、終戦の混乱に慌てて馘首してはならない!」

 

社員たちの胸のうちに感動の波が押し寄せた瞬間だった。だが、実のところ出光の胸中には、人員整理をせずに事業を再建する青写真など何もなかった。だから会社の窮状を知る幹部たちは、出光の頭がどうかしたのではないかと思い、直後の会議の場でその不可能なことを口々に訴えた。

 

出光はどなり返した。

「一時の酔狂で言ったのではない。兵隊に行った者もいるが、そうでなくとも戦時の危険も顧みず社員が仕事に命を投げ出しているのは、おれと会社を信頼してくれたからだ。今、土壇場だからといって、社員たちを見捨てることができるか!」

 

そして、ぽつりと付け加えた。

「会社がいよいよだめになったら、みんなと一緒に乞食をしよう」

 

巷では出光のこの決断を「彼は狂った」と揶揄した。その噂が広まって出光の知人友人らも本気で自殺の心配をした。ついには報道関係にまで伝わり、とうとう出光佐三自殺説が流れた。

狂気を疑われるまでの決断、いったい何が出光の決断を支えたのだろうか。

 

 

訪れた危機

出光佐三は、明治十八(一八八五)年、福岡県宗像郡で生まれた。家は染色の藍を仕入れ、織物業者に卸す商売を営む資産家の類であった。元来病弱であった上に、小学校二年の時に、草の葉で目を傷つけたのがきっかけで、弱視になってしまう。成績は芳しくなくなったが、かわりに反骨の精神が磨かれ、意志の強い性分に育った。

 

二十一歳で神戸高等商業学校(現・神戸大学)に合格。ここで商売についての先進的な知識を学んだ。

 

卒業して酒井商店という商社に入社した。そこは、従業員わずか三人、小麦と機械用潤滑油を扱う零細企業だった。神戸高商出なら大手の商社など、もっと有利な就職口はいくつもあった。しかし、この頃から独立の志を持っていた出光は、大企業より零細企業に就職したほうが実地経験として有効だと考えていたのである。

 

早く仕事を覚え、資本さえ集まれば独立も可能、そう思っていた矢先、思いがけない状況になった。商談のついでに立ち寄ってみると、実家が非常事態になっていたのだ。藍の商売はやめて店は閉じられている。父母は別居状態、それぞれ雑貨商や味噌工場で細々と生計を立てているという始末。高商在学中から仕送りが滞るなど兆しがあったことを、出光は今さらのように思い出し、悔やんだ。ただ、こうなった以上、一家を背負って立つために独立を早め、なおかつどうしても成功しなければならないと強く思った。

 

石油業で身を立てよう――出光は早々に事業を選択していた。卒業論文で石炭と石油の比較を行なったのがきっかけである。採掘に労力がかからず、輸送の負担が軽く、煤煙もなく、管理の容易な石油がいずれ石炭を駆逐するに違いない――それが出光の結論だったのだ。自らの予見を信じて事業を成功させたい、いつしか出光はそう願うようになっていた。

 

問題は資金であった。じっくりと貯めるつもりであったが、家庭の事情が猶予を許さなくなった。出光は思い悩んだ。そんなとき、出光にとって生涯の幸運が一時に集中したような、奇蹟が起こったのである。

 

創業の幸運

神戸高商時代の知人日田重太郎がふらりと出光を訪ねてきたのだ。日田は出光の九歳年長で、淡路島の資産家の養子である。いわゆる高等遊民の類で、資産があるので定職にも就かず、悠々自適の生活をしていた。日田の息子の家庭教師を務めたことが機縁で二人は親しくなったのである。

 

日田は学生時代の出光の物腰を見ていて、その資質を嗅ぎ取っていたのであろう。たとえば、家庭教師としての出光の厳格ぶりは親ですら見ておれぬほど厳しいもので、一切の妥協がなかった。息子が中途でさじを投げることをけっして許さなかった。まさに筋金入りの精神である、と日田は評価していた。

 

さらに目を見張ったのは、やはり出光の就職の選択であった。最高学府を出ながら、優等生の出光が自ら丁稚となり、自転車で集金にかけ回っている。出光見たさに酒井商店に何度か出向いたこともあった日田は、いつも気後れすることなく、前垂れのはっぴ姿で堂々と働いている出光を見て、(こいつは大志を持っている! 投資に値する男だ)と確信していた。

 

たまたまその日、日田は、宝塚まで遊びに行こう、と出光を誘った。日田は道々平素抱いていた出光への思いを口にした。そして続けて、京都に保持している別邸を八千円で売るつもりであると告白し、「かねてから君も独立したいと思っていたんだろう。それならば売却で得る八千円のうちの六千円を独立資金にやろう」と言った。

 

出光の驚きは尋常ではなかった。まして背に腹は替えられない切迫した中での話である。不気味なほどタイミングがよすぎる。また人の好意とはいえ度がはずれている。にわかに信じがたい。いったんは断ろうかとも思ったが、結局出光は出資をありがたく受けた。そして、その金によって北九州の門司で機械油を扱う会社を創業した。出光興産の誕生である。人生の不可思議な巡り合わせから誕生した会社ともいえよう。

 

「人間尊重経営」と独自の商人観

出資に際して、日田は条件を出した。

一、従業員を家族と思い、仲よく仕事をすること

一、自分の主義主張を貫くこと

一、自分(日田)の出資を秘すること

というものだ。

 

日田が出光を見込んだように、この日田の崇高な考えに出光は傾倒した。そして、ひたすらに、一生をかけて事業を追求しようと、決心したのである。

 

出光が基本方針として「人間尊重」を掲げ自主独立の精神を持って経営に邁進したのは、奇特な志から金を提供してくれた日田との約束に基づく、固い誓いがあったからである。

 

したがって、いかに戦後の混乱期といえども、企業存続のために人員整理を決行するという策を採ることは、出光の選択肢には天地が引っくり返ろうともあり得なかったといえよう。

 

ただし、出光が日田との約束を裏切った項目が一つあった。昭和十五(一九四〇)年、会社設立にあたり出光は従業員に日田が出光興産の恩人であることを語り、その陰徳の精神に学ぼうと呼びかけたのだ。日田への恩義をどう形に表せばよいのかを深く考え続けた出光は、最後の一項は破らずにはいられなかった。

 

そうした経営者の倫理に対して出光に大きな示唆を与えていた人物があと二人いる。神戸高商の恩師たちだった。

 

一人は神戸高商校長の水島銕也である。水島は平生から、「実業に進むならカネの価値を尊ぶのはもちろんだが、カネの奴隷になってはならない。そして士魂商才を持って事業を営むように」と説いていた。その考えは、日露戦争の勝利でバブルに酔う世相に対して、警告を発するものであった。商いの心を顧みる者が少ない中、出光は感銘を深くした。

 

もう一人は「商業概論」を担当していた教授の内池廉吉である。内池も商人の倫理観に問題意識を持っていて、出光ら学生たちに、「これまでの、ただ物を動かして利ざやを取るだけの商人は不要になる。これからの商人は、生産者と消費者を直結して、その中間に立ち、相手の利益を考えながら物を配給するべきだ」と提唱していた。この考えにも出光は共鳴した。

 

このように出光の哲学の背景には、日田重太郎との約束が「人間尊重」の経営のバックボーンとしてあり、水島銕也と内池廉吉の教えによって、経営者・商人としての高い倫理が築かれていったといえよう。

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

 

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