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出光佐三、信念の経営者

出光佐三、信念の経営者

(2012年7月23日更新)

 
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出光興産の創業者・出光佐三は「人間尊重」の信念を生涯守り続けている。戦後にあっては、多くの企業が人員整理に走るなか、その場しのぎの苦しい事業運営でなんとか雇用を守り続けた。また、自社タンカー日章丸でイラン石油を直接運んだ日章丸事件も、つとに有名である。出光佐三の「信念の経営」、その軌跡をたどる。

 

*  *  *

 

常識破りの経営道

戦後の混乱にあって、人員整理をせず、雇用を守るということ。言葉としては格好がいいが、しのいでいるさまは悲惨であり、ぶざまであった。

 

出光は戦前戦中に集めた書画骨董を売りに出した。もちろん、社員を食わせるためである。社員の生活を養うために借金もした。毎日、復員してきた社員が顔を出す。出光は一人ひとりにねぎらいの言葉をかけるが内情は火の車である。破綻は時間の問題であった。石油事業を再開させるのが急務であり、そのために配給業者指定を申請したが、許可はなかなか下りなかった。

 

なぜか。そこには、出光興産の戦前の経営手法が大きく影響していたからである。日田が出光を見込んだ信念の強さ、それが業界においては挑戦的な行動と見られたことが多々あった。そのふるまいが尾を引いて、官界も含めて出光イジメの傾向となっていたのである。

 

出光の信念は時に独創的な行動を呼んだ。たとえば創業期のこと、漁船相手の機械油の売り込みに精を出したが、業界の閉鎖的な縄張りのためによく営業妨害に遭った。出光は怒りまくり、それならば海上で取引すれば文句はなかろうと強引に実行したことがあった。このため出光興産は同業者から「海賊」と呼ばれたことがあった。

 

その後、満州鉄道の車軸油を独占的に扱って、出光興産の大きな飛躍の足がかりとしたが、戦時体制のため、活動に統制が入りはじめると、出光は国策に納得がいかなくなった。このときも、軍を相手に噛み付いたりした。こうしたことから、国の印象を悪くして、何のいわれもなく「国賊」と呼ばれたこともあった。出光は己の信念を貫くあまり、正しいながらもあぶない駆け引きを何度も経験してきたのである。

 

本業の見通しが立たず、それでも社員の仕事を確保するため、鳥取の大山山麓での農場経営、茨城での醤油の製造、三重での定置網漁、東京での印刷業等のほか、ラジオ修理業にも手を染めた。いずれもその場しのぎの苦しい事業運営であった。昭和二十四(一九四九)年、ようやく石油の元売り業者に名を連ね、本業を軌道に乗せる足がかりができた。

 

そのほか、出光の独創的な行動として、昭和二十八(一九五三)年に自社タンカーの日章丸でイラン石油を輸入したことも、「事件」としてマスコミを賑わした。イラン石油の利権をめぐって英米が神経を尖らせている時機に、国際カルテルの支配の壁を打ち破るべしとして、拿捕の危険を顧みずタンカーを遣わしたのである。また、昭和三十八(一九六三)年には、石油の生産調整を認める石油業法成立は自由競争を妨げるものだと反対し、石油連盟を脱退してしまった。これも生産調整が廃止されるまで続いた。

 

哲学の時代性とは

信念の経営は筋が通っていてたしかにすばらしい。しかし、独自の信念を貫くことは、経営においてつねにプラスに作用するとは限らないという見方もある。

 

「人間尊重」の一環として、社員の自主性や裁量の自由を重んじ、出光興産では、労働組合も、出勤簿も、定年制もつくらずにきた。また出光は、株式会社化することさえ渋々であった。社員だけで分かち合いたい利益を、縁もゆかりもない株主になぜ配当しなければならないのか。また、株式会社にすると、責任が分散するし、事業家というよりも資本家となってしまって、労働者と対立する立場になってしまうからよくない、というのが出光の考え方であった。非上場を貫いてきたのもその意に添うためである。そうしたこだわりの背後では合理性との葛藤が否応なしに繰り返されたはずである。

 

しかし、そうした葛藤を差し引いても、いや葛藤があったればこそ、出光の“難にありて人を切らず”の英断は、まさに企業の「人間尊重」を象徴する出来事であり、出光興産社史上の輝かしい瞬間であったといえるだろう。 

 

ただ、時代は移り変わっている。経営システムのグローバル・スタンダードの風潮が、「人間尊重」の修正を余儀なくしている。就業意識も格段に違った世の中である。出光佐三は昭和五十六(一九八一)年、九十五歳で大往生を遂げる。今もし出光がこの時代に生きていれば、自らの思想哲学をどのように問い直すのであろうか。

 

出光佐三の略年譜

1885(明治18)年 福岡県宗像郡赤間町に生まれる

1909(明治42)年 神戸高商を卒業

1911(明治44)年 北九州門司に出光商会を創設

1914(大正3)年 出光商会、大陸に事業を伸展。満州鉄道に機械油の納入を開始

1929(昭和4)年 朝鮮における石油関税改正のために奔走

1933(昭和8)年  門司市商工会議所会頭に就任

1937(昭和12)年  貴族院議員に選出

1940(昭和15)年 出光興産設立。社長に就任

1945(昭和20)年 終戦において社員を鼓舞。種々の事業によって窮乏をしのぐ

1946(昭和21)年 国内市場を国際石油カルテルの独占から守るべし、と政府に建言

1952(昭和27)年 アメリカから高オクタン価ガソリンを輸入。国内製品の品質向上、価格の低下をもたらす

1953(昭和28)年 社運を賭してイランから石油を直輸入

1957(昭和32)年 徳山製油所完成により、輸入、精製、販売を一元的に経営

1966(昭和41)年 会長に就任。出光美術館開館

1972(昭和47)年 会長を退任

1981(昭和56)年 死去。95歳

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

 

松下幸之助経営塾 理念研修・経営セミナー

 


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