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武藤山治、「女工哀史」の職場を「天国」に変える

武藤山治、「女工哀史」の職場を「天国」に変える

(2012年8月13日更新)

 
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“女工哀史”の時代にあって、その職場を“天国”に変えた「温情主義経営」の信念とは?傾いていた紡績会社を活性化し、のち社会正義の実践のため政治家に転身、闘うヒューマニストとして最後は凶弾に斃れた武藤山治の純粋なまでの経営手法の背景に迫る。

鐘紡に入社した若き支配人・武藤山治は、自社の紡績工場で出るくず糸が、ライバル企業の三倍に上り、多額の損失に繋がっていることを知り、監督者に注意を促した。監督者は女子工員を叱りつけ、くず糸はすぐになくなった。 

喜んだ武藤だったが、あとになって減ったと思われていたくず糸が彼女たちの便所に山積していることに愕然とする。厳しく叱責されるつらさを逃れるため、くず糸を隠した女子工員たちのいじらしさに心打たれた武藤は、人間らしい情愛に満ち、なおかつ効率的な工場経営のあり方を模索しはじめた。「温情主義経営」のはじまりである。

傾いていた紡績会社を活性化し、のち社会正義の実践のため政治家に転身、闘うヒューマニストとして最後は凶弾に斃れた武藤の純粋なまでの経営手法の背景には何があったのだろうか。

 

『女工哀史』の時代

日本の近代化を牽引した紡績業は、欧米先進国の技術を取り入れ、急速に成長した。その急成長を底辺で支えていたのが、農村から低賃金で雇われ、劣悪な労働条件のもとで働いた女子工員たちの存在であった。その悲惨さは細井和喜蔵が著した『女工哀史』に詳しい。二十四時間操業の中、ろくに休憩も与えられず、逃亡すれば懲罰が待っていた。過度の労働と衛生環境の悪さ、支給される食事の栄養事情、何を取っても酷いもので、まさしく彼女らは近代資本主義発展の捨て石だった。

 

こうした非人間的な環境を遺憾なものとして、果敢に経営改善に取り組んだ最初の経営者こそ武藤山治であった。今でいうES(Employee Satisfaction=従業員満足度)に目覚め、それを確立することで実績を上げた先駆者といってよい。

 

武藤は類まれなヒューマニストで、そのエピソードには事欠かない。次のような話がある。

 

鐘紡の支配人になって間もない頃、人力車に乗って出勤途上にあった武藤の視界に、鼻緒の切れた下駄を持ち、裸足のまま工場のほうに走る少女の姿が入ってきた。「待ちなさい」と声をかけ、「おまえは紡績工場へ行くのだな」と尋ね、「はあ」と怪訝な顔をしている少女に、「乗っていきなさい」と人力車を譲り、自分は弁当を小脇に抱えて歩いた。翌日、その少女の父親が礼を述べに来たと聞いて、武藤はうれしそうに笑ったという。

 

また工場内で操業中に気分が悪くなった女子工員を、男性用務員が背中に負って病室に行くところを見かけたときのこと。武藤はすぐに責任者を呼んで、「女性の病人を男性が背負っていくのははなはだ不都合だ」と注意した。そして机上の紙に自ら病人を乗せるための自転車の絵を描き、さらに店の住所まで書いて、立ちつくしている責任者に、「これを買っておいで」と言った。セクハラ対策の走りとでもいおうか。

 

あるいは、女子工員が病で倒れ、その親が見舞いに来たと聞くと、往復の旅費を出してやったこともあった。こうした濃やかな気遣いを武藤はもっぱらポケットマネーから出していたので、給料は毎月残ることがなかったという。

 

人間・武藤の原点

このような武藤の人間性はどのように培われたのであろうか。慶応三(一八六七)年、岐阜の富裕な農家佐久間国三郎とその妻たねの長男として生まれた武藤山治は、恵まれた少年時代を過ごした。佐久間家は地元では名士として知られ、祖父は村に尽くした功によりその死去においては村葬をもってねぎらわれた人物であった。父国三郎もまた篤行の人であった。邸内に図書館を建てるほど好学だった国三郎は、山治をケンブリッジ大学に留学させようという志を持ち、山治もまたそれを望んでいた。

 

母の証言によれば、少年山治は不実不正を嫌う資質が幼くしてあった。ある年の村祭りの日、国三郎が弟を連れていくこととし、山治に留守番を申し付けたことがあった。その労を慮って国三郎が余計に小遣いを与えようとすると、山治は、「私だけ余分に頂戴することはいけません。どうか兄弟皆平等にしてください」と答えたという。すでに将来の片鱗を示していたといえる。

 

人生の変転が起こったのは明治十四(一八八一)年のことだった。この年が、経済的に平穏無事に終わっていたら、武藤は念願の英国留学を果たし、好きだった文学を学び、文学者としての人生を歩んだかもしれない。しかし、時の首相松方正義が行なった極端な緊縮政策(松方デフレ)によって、生家の資産価値が下落、英国留学の夢ははかなく消えてしまったのである。それでも、福沢諭吉の『西洋事情』を読んで感激した国三郎が、十四歳の武藤を慶應義塾に入れたというのは、当時の教育事情を考えれば著しく恵まれていたというしかない。

 

慶應義塾を卒塾後、武藤は米国への留学を決意する。結局海外への憧れを断ち切ることができなかったのであろう。生活は苦しく、見習い職工、学校の用務員といった仕事をしながらの学業であったが、米国の自由と文化、資本主義を思う存分体感した。

 

帰国後、米国で見知った新聞広告取扱業をはじめ、横浜ジャパン・ガゼット新聞社の記者、東京イリス商会社員と、米国留学経験が生きる外国企業に就職する。

 

しかし、武藤の人生を大きく花開かせたのはやはり慶應義塾での人脈であった。福沢の甥、中上川彦次郎が低迷していた三井財閥の改革を担って、広く人材を求めた際、武藤にも声がかかり、三井銀行に入社。実力を認めた中上川が、武藤を三井傘下にあった鐘紡の再建に派遣したのは明治二十七(一八九四)年、武藤二十八歳のときであった。 

 

「温情主義経営」の実態

鐘紡社史によれば、この明治二十七(一八九四)年から、社長を辞する昭和五(一九三〇)年までの三十六年間を「武藤山治時代」としている。この間における鐘紡の発展は売上げ、利益、資産、配当に至るまで数倍から十倍にまで拡大する。その成長の原動力となったのは、時代を先取りした合理性かつヒューマニズムに満ちた「温情主義経営」と呼ばれるものだった。

 

彼が発案した福祉の整備は三十九件に及んだが、主だったものには次のようなものがある。

1)乳児伝育所の設置――一九〇二(明治三十五)年、武藤が最初に手がけた福利厚生施設。乳飲み子を持つ女子工員のための保育施設で、仕事の合間に伝育所に来て授乳ができるという、きわめて斬新な取り組みであった。

2)「鐘紡共済組合」の設立――友人からもらった冊子に載っていたドイツのクルップ製鋼会社の従業員福利制度に倣って発足させたもので、病災救済機関として職工員の優待に画期的な制度となった。現在の健康保険制度のさきがけといわれるこの組合の定款は、健康保険法制定の際にもその骨子とされた。

3)「注意箱」制度――米国出張中の役員が送ってきた雑誌に、オハイオ州現金計上機製造所の頭取が、三千人の職工員に呼びかけて社内提案制度をつくり効果を上げたという記事があり、これを読んで感銘を受けた武藤が導入した。実施の際、どんな低い職位の者でも自由に提案できなければならないとして、注意箱に対して上役が下位の者に干渉を加えることには懲罰解雇を以て報いる、と徹底した。

4)社内雑誌の刊行――職工員の慰安となるものとして、『鐘紡の汽笛』『女子の友』といった雑誌を発行した。『鐘紡の汽笛』の前身であった『兵庫の汽笛』はわが国初の社内報とされている。

 

こうした福祉に関するもののみならず、経営においても「科学的操業法」(明治四十四〔一九一一〕年)、「精神的操業法」(大正四〔一九一五〕年)、「家族式管理法」(大正十〔一九二一〕年)といった独自の指針を次々に表明した。いずれも労働者本位に立ちつつ合理化を促進しようとするものであった。

 

「科学的操業法」は、当時の日本で導入されながらも、あまり浸透していなかったテーラーの科学的管理を実際に生かそうという日本でも先駆的な試みで、仕事の段取りを分解し、ムダ・ムラ・ムリを発見して改善しようと宣言したものである。「科学的操業法」が仕事の量を合理化するのを目的としたのに対して、「精神的操業法」は仕事の質、つまり従業員の心の持ちよう、集中力の大切さや管理者の部下に対する責任を問うた。また「家族式管理法」は、「従来日本ノ家族制度ノ善良ナル部分ニ則リ、会社ノ管理組織ヲ一家族ノ如ク協和的ノモノタラシメントスルニアリ」として、社員相互の理解と協力を訴えるものであった。武藤は自分の考えをどんどん発展させ、その都度発表していった。

 

こうした人間味ある武藤の労務管理手法は、“女工哀史”の環境から女子工員の“天国”といわれるまでに労働環境を変えた。新式機械も導入して、それらの相乗効果によって鐘紡は目ざましい成長を遂げた。

 

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

    


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