課長職にマネジメントの革新を!
RSS

武藤山治、「温情主義経営」の信念とは

武藤山治、「温情主義経営」の信念とは

(2012年8月21日更新)

 
  • はてなブックマーク
  • Yahoo!ブックマーク
  • Check

“女工哀史”の時代にあって、その職場を“天国”に変えた「温情主義経営」の信念とは?傾いていた紡績会社を活性化し、のち社会正義の実践のため政治家に転身、闘うヒューマニストとして最後は凶弾に斃れた武藤山治の純粋なまでの経営手法の背景に迫る第2回。

 

*  *  *

 

闘うヒューマニスト

こうした一社の躍進は業界に思わぬ軋轢を生んだ。高賃金で環境のよい鐘紡の評判を聞いた他社の女子工員が、脱走して鐘紡に殺到したのである。この事件は業界のみならず政治を揺るがす事態にまで発展した。背景として、当時大阪の紡績業界では中央綿糸紡績業同盟会というものが結成されており、「職工引抜防止協定」をつくって業界の職工員不足を互いに保全するように配慮をしていた。ところが同盟会に対し、従来鐘紡は工場が大阪ではなく兵庫にあったことから加盟を拒んでいた。そうした微妙な状況のなか、鐘紡は脱走してきた女子工員を迎え入れたので、同盟会側は強く反発したのである。

 

当時の社会情勢によるが、このときの鐘紡と同盟会の軋轢は現代では考えられない激しさであった。新聞紙上で弾劾広告を掲載する程度では収まらず、取引商人や運送会社に鐘紡との取引をやめるよう圧力をかける。はては暴力団を雇って、鐘紡の操業を妨害、従業員にまで危害を加えるような事態になった。武藤自身も刺客に狙われた。

 

この事態に鐘紡の監理の大元であった三井銀行の中上川彦次郎は激怒し、同盟会所属の会社へは一切の融資を拒絶するよう指示、ここにおいて紡績業界の紛争は政治問題と化した。二カ月後、日本銀行総裁の岩崎弥之助の仲裁によって和解するが、こうした経緯をふりかえっても、武藤の「温情主義経営」は業界においていかに大きなインパクトを与えていたかが窺えよう。中上川が武藤の手法を首尾一貫支持したことは、武藤には幸運であった。

 

信仰か合理主義か

仏のような一面、火の玉のような激しさを秘めた熱血漢、それが武藤のイメージである。武藤が「温情主義経営」を強烈な信念のもとに実践していった背景には何が挙げられるであろうか。

 

一つ明らかなのは、武藤の生家が日本では稀なリベラルな家庭であったことであろう。そのことに加えて、先に述べたように武藤の父、祖父ともに村内の篤行の士で、それぞれが日蓮宗、キリスト教への信仰心が篤かったことも、武藤の人間性に大きく影響していたと思われる。武藤自身は長らくキリスト教信者ではなかったが、死の直前にカトリックの洗礼を受けた。「温情主義経営」を宗教心の発露と捉えることはできないが、キリスト教的博愛心は自らも理解し、「温情主義」を後押ししていたと考えても間違いではないだろう。

 

それとともに、資本主義の本場米国での見聞がある。米国留学時代の記憶として、武藤はこんな一文を書いている。

 

「私が米国人の家庭に働いて感じましたことは、主人や主婦は勿論、家族全体の召使に対する態度が、優しく上品で言葉遣ひも極めて鄭重であることでした。何事を言ひ付けるにもplease(どうか)と言ふ言葉を必ず初めに使ひます。子供など主婦以外の者は日本のように矢鱈に召使に物を言ひ付けませぬ。何か言ひ付ける時には命令詞は使ひませぬ。必ずWill youと言ふ言葉を使ひます。これは使はれる身になると誠によい感じのするものです」(『私の身の上話』原文ママ)

 

このように日本では上流育ちの武藤が、米国においてまったく違う視線で社会を見たという事実は大きかった。ことに、米国社会に浸透しているプロテスタントの倫理と合理主義的精神は、社会観のみならず人生観にも影響を与えたと思われる。

 

武藤研究においては、こうしたキリスト教との近接と近代西洋文明思想の受容こそ「温情主義経営」の原点と位置づける見方が従来一般的であった。ただ最近の新たな見解のなかには、武藤の「番頭」的役割から来る現実主義的な感覚をより評価しようとするものもある。中上川彦次郎が日本のプロ経営者の先鞭であったように、財閥では資本と経営の機能が分離しつつあった。三井の経営を託されていた中上川がさらに三井傘下の鐘紡再建に武藤を抜擢したという事情をもっと考慮に入れるべきだというのである。武藤の使命は鐘紡のイノベーションであり、管理責任は甚だしく大きい。イノベーションの手法が「温情主義経営」というきわめて倫理的な内容ゆえに個人的信念によるものと捉えられがちだが、信条としてヒューマニズムによっただけではなく、人材の活性化という現場主義的対応だったということである。すなわち人材をコストと見るのではなく資源とするイノベーションだったという見方もできるわけである。

 

実業者に必要な政治観

武藤は稀有な情熱をつねに社会の良化に捧げ続けた。武藤に学ぶことといえば、その志の大きさをまず見習うべきであろう。さらに企業家としての人間性を考慮するならば、一つには、とにかくよく働いたこと、勤労の率先者であったことを重視したい。

武藤の座右の銘は、「何人も人一倍の事を為すに非ざれば、一倍の人となること能はず」というもので、己に厳しい一面が窺える。

 

鐘紡入社間もない頃をふりかえって武藤はこう記している。

「はじめ、四、五年間は一年三百六十五日一日も休まず働き通しました。元日でも事務所へ出たくらいでした。後になって会社の財政も楽になり、せめて日曜日だけは休もうと思って試みてみましたが、はじめは日曜日を休むことは非常に苦痛でありました。日曜日は休むものと考えるようになるまでには相当の年月がかかりました。」(『私の身の上話』原文ママ) 

 

明治人の勤勉には頭が下がる。

また、そのフェアな精神も学ぶべきではないだろうか。鐘紡退社後、実業同志会をつくり政治活動に入った武藤だが、こんなエピソードが残っている。

 

選挙投票日を控え、選挙運動にいそしんでいた武藤がある所で演説を終え、路地に出たとき、曲がり角に自分と相手候補の立て看板がいずれも風にあおられて倒れているのを見た。付き人が走りよって武藤の立て看板だけを立てたところ、すかさず、「もう一つのも立てておきたまえ」と注意したという。「汝の敵を愛せ」というのも武藤の愛した言葉であった。昨今、目前の利益のためにはコンプライアンス(法令遵守)をおろそかにする経営者が多いが、彼らの目には武藤の潔癖さは信じられないかもしれない。

 

また、当時としては実業家から政治家へ転身した数少ない一人であった武藤は、実業家の政治意識に対して、同志会発足時にこう述べている。「実業家も政治的覚醒が必要である。また、実業家の主張はたんなる哀訴嘆願の運動のみにては到底その目的を達成することができない」。政治と経済の然るべき関係は時代によって一様に論じられないが、実業家の問題意識としてはつねに喫緊の課題として重要であろう。

 

武藤の最期は劇的である。昭和九(一九三四)年、北鎌倉の別邸を出て間もなくの路上、近寄ってきた男に狙撃され死亡する。生活苦にあえいでいたという犯人は、本人も自決したため遭難の真相はわからないままとなった。混濁する意識のなかで、犯人の死とその生活苦を知らされた武藤は、「あの男のあとをみてやれ」と、自分を撃った男の遺族の面倒まで口にしたという。闘うヒューマニストはそれらしい結末を与えられ、最期まで見事であった。

 

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

     


メールマガジン

更新情報をメルマガで!ご登録はこちらからどうぞ