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大原孫三郎、回心がもたらした大転換

大原孫三郎、回心がもたらした大転換

(2012年9月18日更新)

 
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地方の名望家・実業家として紡績・銀行・電力といった事業を育てつつ、全国に例を見ない社会福祉事業を推進した大原孫三郎。鬼気迫る社会事業への真意とは? 回心がもたらした大転換の真相に迫る第2回。

 

* * *

 

大原に影響を与えた人物

ここで大原に決定的な影響を与えた人物がいる。石井十次という。医学生であったが孤児の救済に自分の使命を感じ、医学の道を捨てて岡山に孤児院を設立したヒューマニストであった。孤児救済の募金を訴える石井の演説に魅了された大原は、自ら石井を訪ね、協力を申し出る。己の貧困を顧みずキリスト教の博愛精神から社会奉仕活動に邁進する石井の姿を、大原はどのような思いで見つめたのであろうか。

 

孤児院の支援という活動に、経営活動よりも早く関与したことに、大原の社会福祉活動が経営に付随して創出されたものではないことが窺える。

 

また、父孝四郎も大原の社会福祉事業を応援した。金銭的失敗をしてもなお大原は父孝四郎から財を融通することができたのであろう。

 

これほどまで“持てる者”に生まれた境遇を大原はどのように捉え直したか。そのことは大原自身の大きな課題であったろう。この点、同じように豊かな境遇に生まれ、地方から上京した例として、持てる身分に矛盾を感じ、思想的に共産主義に走るパターンは太宰治をはじめ作家・文学者によくある。大原の場合、幸か不幸かそうした思想的葛藤に陥ることはなかった。陥る前に、問題を起こしたということになろうか。

 

大原が再出発を託したといえる福祉事業に対するモチベーションは、述べてきた義兄の死と石井との邂逅のほか、次のような要因が挙げられよう。

 

1)二宮尊徳

倉敷に戻り、自責の日々を過ごしていた大原に、友人が二宮尊徳の『報徳記』『二宮翁夜話』を送ってきた。むさぼるように読んだという。『二宮翁夜話』にある、「富家の子弟は、譬ば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆眼下なり、是に依て分外の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終に滅亡す。天下の富者は皆然り。ここに長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只我道推譲の教あるのみ。富家の子弟、此推譲の道を踏まざれば、千百万の金ありといへども、馬糞茸と何ぞ異ならん」という一節をまさにわが身のことと受けとめたに違いない。

「余がこの財産を与へられたのは、余の為にあらず、世界の為である。余に与へられしにあらず、世界に与へられたのである。余はその世界に与へられた金を以て、神の御心に依り働く者である」

(明治三十四〔一九〇一〕年三月十五日の日記)

ここにはキリストに殉じる覚悟とともに、尊徳に対して回答するかのような気構えが見られる。

 

2)父・孝四郎と儒教

大原の父孝四郎は、高利貸しにさえ礼節を尽くす寛仁な人柄であったが、その徳性は儒教によって養われたものであった。孝四郎は倉敷紡績を立ち上げる等、実業家の素質を多分に持った人物であったが、実家は儒学者だったのである。父の思想的系統を大原も学んでいたことは想像に難くない。

 

労働理想主義への邁進

大原の社会福祉事業は生涯を通じて、間断なく続いた。その財源はもっぱら地主としての貸地料が充てられていたというが、無論それだけではすまなかったようである。大原はまた利益を得る実業の面でも、積極的であった。当時の紡績事業の成長は、量的拡大によってスケール・メリットを創出する戦略が適当と見られたが、大原は新工場の建設と他社の買収をいち早く積極的に進め、功を奏した。とくに、倉敷紡績と規模的に大差がなかった吉備紡績の買収は役員の反対を押し切って成功を収めたもので、大原の事業家的才能を示すものであった。

 

また社内の福祉改善も明治三十九(一九〇六)年、父を継いで社長に就任した直後から、積極的に取りかかった。工員の住居改善のため、分散式家族的宿舎を建設、宿舎は診療所、託児所が設置された斬新なものであった。

 

大原は、増益があっても、株主への増配や役員賞与に回さず、逆にそれらを減らして社会事業や社内福祉に資金投入した。従業員の待遇を優先する方針は、当然社内外からも反発があった。そのたびに大原は「わしの眼は十年先が見える。十年経てば世人もわしのやった意味がわかる」と目先の価値観、自分本位の価値観に捉われないようにと周囲を説得した。

 

また彼独自の企業観として、「企業とは資本と労働の協同の作業場」であると主張していた。資本家と労働者に優劣はない、と考えたのである。大正六(一九一七)年の工場長会議の席上、大原は、「従業員を生産の道具として使役することは間違いである。働きにくる人も、経営を行なう資本家も、双方共に偏らない利益を以てすれば、労使協調は可能なのではないか」と表明している。こうした労働理想主義は他に例を見ないものであった。

 

狂的で複雑な企業家精神

さて、見てきたような大原の社会福祉事業観を現代の経営者はどのように捉えるべきなのであろうか。CSR(企業の社会的責任)や企業倫理が問われているなか、一つ見習うべきは、利益第一主義に陥らないためにとか、不祥事を起こさないためにといったネガティブな動機から企業観を構築するのではなく、青春の挫折をまさに企業家らしい企業家精神(アントレプレナーシップ)に昇華して果敢に実行したところであろう。大原にとって経営活動が主で、社会福祉事業が従という認識はなかったのではないか。大原社会問題研究所の運営一つをとっても二十一年間で提供し続けた金額は一八五万円、現在の一八五億円に相当する。それほどの額は例を見ない。その継続性もまた評価されるべきであろう。

 

ただ、こうした一連の社会福祉事業への取り組みを、青年時の猛省と宗教的信仰心からと解説してきたが、それだけで説明し切ってよいものであろうか。企業家の本質と人間性をもう少し慎重に検討しなくてはいけないのではないかと思われる。

 

企業家は経済的合理性に従って行動するものであり、大原社会問題研究所や労働科学研究所はそれ自体、経営問題の合理的解決をめざした壮大な投資だった。つまり“超合理的思考”から行動したともいえる。

 

また超合理的という表現が不適切ならば、常識人を超えた企業家の狂的な部分とでもいおうか。経営の合理化については、経費節約対策研究会を設けたり、営業の近代化のため商標の整理、製品の標準化まで緻密に推進したりした一方、美術館のための絵の買い付けには、ヨーロッパに滞在していた児島虎次郎に、「エヲカッテヨシ カネオクル」との電報一本で任せた。緻密かつ合理化を求めるセンスとアバウトな散財に近いセンスの同居、このバランス感覚はどう理解すればよいのだろう。大原自身でなければ説明できないのではないだろうか。

 

大原の人間性については、跡を継いだ息子の總一郎でさえ、「非常にわかりがたい性格だった。その分かりにくさは、茫洋として捉えがたいという類のものではなかった。尖鋭な矛盾を蔵しながら、その葛藤が外部に向かっていろいろな組み合わせや強さで発散したから、人によって評価はまちまちだった」と語っている。家庭人としての大原は晩年まで、家を空けがちで花柳の席にも連なった。青年期の東京での苦い経験をきっかけに、人間的成長が図られたというのは誤りではないが、聖人になりきったということでもなかった。

 

また、純粋な目的達成のために主義主張を超えて周囲を巻き込んでいった。大原社会問題研究所設立にあたっては、所長職を社会主義者の河上肇に打診するため訪問を重ねた。資本家の来訪に河上のほうが戸惑って、「たびたびここへお出でになるのは、あなたのためになりませんよ」と言っても、大原は笑って意に介することはなかったという。

 

大原は、営利事業と社会福祉事業の経営を「靴と下駄を一緒に履く」と述べていたが、「それは失敗だった」と述懐している。何を以てそう言ったのかはよくわかっていない。また、自分の生涯は「反抗の生涯だった」とも述べたという。これも何に対しての反抗なのか、わかっていない。大原の人間性は一見わかりやすそうでいて、実は深く複雑なようである。

 

真の企業家精神とは何であろう。それはたんに合理性の追求に卓越しているから発揮されるものではない。むしろ利害や理屈では割り切れないそれぞれの人間くさい部分、情動、情念の影響が実は大きいのではないだろうか。

 

そのように考えれば、大原の執念という以上に突き抜けた社会福祉事業観は考えようによれば、現在、時代の趨勢として論じられているCSRや企業倫理に対する大きなアンチテーゼとも見られるのではないだろうか。つまり、社会が変わった、システムが変わったという理屈ではなく、より根幹の人間的な精神から、あるいは善を追求したい良心から、企業を社会に生かす発想を現代の企業家が心の底に有しているのかどうか。経営者に今一度の自己観照を求めたいものである。 

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

     


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