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松下幸之助、業界首位を呼び込んだ外国企業からの技術導入

松下幸之助、業界首位を呼び込んだ外国企業からの技術導入

(2012年10月 5日更新)

 
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オランダのフィリップス社との技術提携で、業界首位に立った“経営の神様”松下幸之助。企業DNAを信じて共存共栄の道を目指した、その決断の背景に迫る。

 

* * *

 

昭和三十年代に予想される、来るべき家電需要に対して、万全の備えをしておかなければならない。しかし、会社は敗戦の痛手からようやく再建の手ごたえをつかんだ程度で、時代の寵児と期待されるテレビやラジオの開発において、技術力が覚束なかった。真空管をはじめ電子管技術の立ち遅れは、外国企業との技術提携により補完しなければならない。

 

一方、日本のテレビ研究の標準は次第にアメリカ方式へと定まっていく。そうした趨勢にもかかわらず、欧米への視察を終え、松下幸之助が社運を賭けるに足る提携先に選んだのはオランダのフィリップス社であった。交渉は難航し、その意義を何度も問い直した末での決断であった。しかし、結果的に同社との技術提携によって、松下電器はテレビ開発競争の勝者となったのである。松下幸之助はどのような思惑のもとにフィリップス社を選んだのであろうか。

 

技術提携が成功した稀有の決断

現代人の生活においてテレビは、市場に出回って以来、現在ももっとも重要な家電製品であることに変わりはないであろう。そして日本のテレビ産業は今や世界市場を牽引している。敗戦によってテレビ研究が欧米よりも遅れていた日本のテレビ産業が、昭和四十二(一九六七)年にアメリカの生産を上回って以降、現在の地位を築いたのは、国家産業の見地からも日本の誇りといえよう。

 

その輝かしい業界のなかで、今も旗頭となっているのが松下電器産業である。同社は高度成長期に生産シェア首位になるが、遅れていた日本のテレビ産業にあって、第二次世界大戦後のテレビ研究の再開時には、ライバル社の開発よりなお遅れていたという。そこから首位の座をつかむまでには、製造からマーケティングまで、さまざまな分野における工夫と努力が結集されたと見られる。ことに品質面で劇的な向上を促したのが、オランダのフィリップス社との技術提携であった。この技術提携が、同社の家電産業としての飛躍に大きな役割を果たしたことは衆目の一致するところである。

 

この社運を賭けるほどの決断は、その技術提携の交渉が生半可なものではなかったこともあって、松下幸之助をサイン直前まで悩ませたという。

 

松下は何を以て決断できたのであろうか。

 

その前にまずテレビ研究の歴史を少しふりかえっておく必要があろう。そもそも日本のテレビ技術は大正十五(一九二六)年に当時浜松高等工業の高柳健次郎がブラウン管による電送・受像の実験に成功して以来、世界水準で推移していたといわれる。“テレビの父”といわれた高柳の活躍で昭和十(一九三五)年頃には、電子式テレビの技術的課題はかなり解決されており、あとはいかに実験を重ねていくかが開発のポイントであった。

 

折しも、昭和十五(一九四〇)年に東京オリンピックが予定されていたこともあり、その放映と受信がすべてのテレビ技術関係者の目標となるに及んで、第二次世界大戦開戦前夜のテレビ研究はかなりの熱気をはらんでいた。

 

ところが日本が戦争に突入したことで、テレビ研究は大きく停滞することになる。戦時中、民需向けのテレビ研究は、軍需面中心の研究に移行してしまったし、何にも増して敗戦の打撃がテレビ研究に与えた影響は大きかった。GHQが昭和二十(一九四五)年十月から翌年六月までテレビ研究を禁止。この停滞や物資の不足もあって、テレビの技術開発は欧米と比べると七年から十年遅れたといわれる。

 

したがって研究が再開されたとき、業界各社は市場にいち早く製品を投入するためには、先行している欧米企業からの技術導入が不可欠、と考えるようになった。

 

松下幸之助の選択

戦後の松下電器におけるテレビ研究の再開は早いものではなかった。東芝が昭和二十四(一九四九)年五月に再開したのに対し、松下電器は昭和二十六(一九五一)年七月。発足したテレビ課はわずか三人からのスタートであった。ことに重要な部品である真空管こそ戦時中から自社生産によって調達できるようになっていたが、ブラウン管についてはライバル社の日本電気製を使用するか、アメリカ製のブラウン管を購入するしかなかった。この状態のままでは追いつくことはできても追い越すことはできない。

 

どの企業と提携するか。それは家電企業として飛躍しようとする松下電器にとって大きな転機となるはずであり、社運を決定づける重要な決断であった。その決断のために松下幸之助が最初に外国を訪問したのは昭和二十六(一九五一)年一月のことで、行き先はアメリカであった。次いで十月には、再びアメリカを訪れたあと、オランダ、ドイツ、フランス、イギリスを回った。二度目の外遊の目的は欧米の優れた会社を見聞し、実質的には、技術提携および経営の提携先を探すことであったといえよう。

 

そして、この重要な選択で、松下幸之助が選んだのがオランダのフィリップス社だったのである。フィリップス社は、当時で社業六十年、全世界に三〇〇近い工場と販売拠点を持ち、製品の八〇パーセントを海外へ輸出する世界有数の電子機器メーカーであった。フィリップス社の要請により提携の受け皿となる会社として、昭和二十七(一九五二)年十月、松下電器との合弁によって松下電子工業が設立されたのである。

 

フィリップス社との交渉

その決断は見事な成果を生み出した。技術提携によって管球部門の品質は向上し、市場におけるテレビ部門のシェアも大きく躍進した。

 

昭和二十九(一九五四)年八月発売の一四T―五四九はフィリップス社のトランスレス方式による一四インチテレビで大ヒットを記録。これによりテレビの生産シェアで松下電器は第三位になった。その翌年六月発売のT―一四二二によって十万円を切ることに成功し、さらに安定した競争力を持つ。そして昭和三十三(一九五八)年二月発売のT―一四C一は価格、品質、デザインにおいて好評を博し、翌年にかけてついに松下電器はシェア第一位を獲得したのである。

 

フィリップス社との技術提携は、その交渉過程において非常に難航したことはよく知られている。フィリップス社が技術提携に応じる条件は、提携の受け皿となる新会社の資本金の七〇パーセントを松下側が持ち、フィリップス社の負担は三〇パーセントとすること、しかもその出資分は松下側が支払う技術援助料を充当するというものだったから、結局全額松下側の負担であり、松下電器にとってかなり不利な内容であった。

 

その上、技術援助料は七パーセントという高率を要求された。アメリカの会社なら通常三パーセントだったのである。さらに合弁によって設立する松下電子工業の資本金は六億六千万円。親会社の松下電器の資本金五億円を上回るもので、その出資規模を考えれば決断の重さは尋常ではない。技術提携がはっきりした成果を見せなければ、新会社も松下電器本体も存続に関わる打撃をこうむるであろう。

 

この投資が成功するのかどうか、松下幸之助は悩み抜いた。そしてまたこの提携条件がはたして適切かどうかも。この交渉過程で有名になったのは、松下幸之助がフィリップス社の高額な技術援助料に対して、「経営指導料」というものを主張し、認めさせたところである。これは、「フィリップス社の技術援助に価値があるならば、松下電器の経営指導にも価値がある」と確信して要求したもので、前例のない画期的な発想であった。「相手は非常に困った顔をしたが、結局それを承諾した」と松下幸之助は回想している。この結果、フィリップス社の技術援助料は四・五パーセント、松下電器の経営指導料が三パーセントということで合意に達した。

 

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

 

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