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改革の申し子・土光敏夫の原点

改革の申し子・土光敏夫の原点

(2011年1月24日更新)

 
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 マスコミも驚く理想的な合併となった石川島重工業と播磨造船所。その演出者・土光敏夫は、のちに東芝の再建、経団連会長、臨時行政調査会会長となって常に世直しの先頭に立った。人間味あふれる土光の決断の背景に迫る第2回です。

 

改革の申し子

正式合併までの最難関は人事と組織の整備。ここは問題となりやすい。旧社同士の力関係を引きずって、人事に不公平を生むことがよくあるのだ。ことに大が小を併せ呑む合併ではなおさらである。石川島播磨重工業においては、播磨造船が解散という形を取った。どう見ても石川島による吸収合併である。その上両社の社風、給与体系、昇進制度すべてが違う。

 

しかし、新会社初代社長として土光は、まず役員構成を旧二社出身者同数にして公平を保った。膨張した組織は「産業機械」「原動機化工機」「船舶」「航空エンジン」「汎用機」の五部門に集約、完全事業部制を布き、それぞれの事業部長には大幅な権限委譲を行なって、俊敏な経営形態の構築を図った。驚くべきは個々の人事であった。これは「ミキサー人事」と呼ばれ、賞賛された。全従業員をそのまま本社がいったん預かり、あとは先の事業部へ石川島、播磨の出身にかかわらず適材適所のみに忠実に配置し直したのである。これでは社員同士がお互いに新顔で、どちらの出身かもわからない。こだわりやわだかまりが生じることなく人心が一新された。土光が会見で言った・核融合・は本物だったわけである。

 

この合併の立役者になったことで、従来地味だった土光の株は一躍上昇した。

 

その後の土光は・改革・の要あるところに引っ張り出されるようになった。取引関係にあった東芝再建を託され社長に就任。エリート意識だけが高く、お坊っちゃま気質に陥っていた社風に活を入れ、社長専用の華美な浴室を取り壊し、二人の秘書を業務に戻すなど、徹底的にムダを省いてわずかな期間に再建のめどをたてた。

 

いよいよ引退しようと思ったら、経団連会長に推され、さらに八十四歳にして臨時行政改革推進調査会会長に担ぎ出され、やはり改革を任された。技術者らしい合理的な考え方が、企業の再建や政治の改革にも適役だと見られたのだろう。

 

こうした活躍から土光についたあだ名も数多い。「財界の荒法師」「ミスター合理化」「行革の鬼」「怒号さん」等々である。

 

そうした資質が土光の人生において最初にクローズアップされた決断が、この石川島重工業と播磨造船所の合併劇だったと思われる。

 

では、合併の決断という点において、もっとも評価されるべきはいかなる点であろうか。

 

合理的であることはもちろんだが、やはり公平無私の精神と強いリーダーシップであろう。従来、資本関係も業務提携もなかった大企業同士の合併が、官庁や金融機関による根回しもなく、企業トップの主体的判断のもとに成立した。こうした例はごく稀なことで、企業家の信念がよほど強固でなければ実現しない。しかも、それが円滑に進んだのは、当事者の土光が、目先の利益、自社の利益といった視点ではなく、長期的視野に立ち、また相手の会社の立場を配慮して、終始紳士的な態度でリードしたからこそであろう。

 

土光敏夫の原点

こうした土光の信念と公正な気構えはいつ培われたのであろうか。その答えは、母の存在にある。

 

明治4(1871)年、岡山県御津郡芳田村で土光の母登美は生まれた。登美は18歳で米穀肥料の仲買をしている土光菊次郎と結婚、明治29(1896)年に敏夫を産んだ。

 

土光は熱心な日蓮宗の信者だが、それはこの父母がそうであったからである。ただ、信仰の姿勢は対照的で、病に関してなど、父菊次郎は薬を拒否し、信仰による治癒を信じた妄信ぶりだったのに対して、母登美は読経をしつつ専門の医学者を探したりした。また、信仰生活や自然を大切にしながら、たえず生活に工夫を取り入れ合理的な考え方をしていた。こうしたことから周囲の曰く、土光はこの登美の気風をそのままに受け継いだという。

 

登美について驚かされる点は、一主婦の身の上ながら、学校を創設したことである。元来、進取の気性に富んでいた登美は、雑誌『中央公論』『改造』などを読みふけり、社会問題に敏な女性であった。

 

いつしか信仰のない当時の女子教育に大いに不満を感じるようになった登美は、いつかそのための活動をしたいとひそかに期していたのであろう。菊次郎も登美も土光の就職とともに上京、普通に暮らしていたが、菊次郎が昭和15(1940)年に病没すると、一周忌のその席で余生を女学校の創設にかける、と家族に宣言した。すでに70歳の登美のその宣言には、皆呆気にとられ、当然反対した。

 

しかし、登美は譲らない。学校創設のためには文部省の認可から、用地買収、教員の確保、生徒募集まで途方もない労力が必要である。資本もない。登美は、資金集めからはじめた。そして、不屈の信念のもと、勤勉の限りを尽くして、本当に女学校創設を実現する。昭和17(1942)年創設の橘学苑(現橘学苑中学校・高等学校、横浜市)がそれである。学苑ができて、登美は法華経の読経をピアノの音で生徒に弾いて聞かせたという。

 

土光にとって、そうした母の生き方はすべての手本であった。土光は晩年、臨調会長として奮闘する中、質素な生活ぶりが紹介され有名になった。食事はメザシ、散髪も息子の腕に任す。月々の生活費は五万円、といわれた。おそらく大半が残されたであろう月々の給与は、母が創設し、自分が理事長を継いだその橘学苑に多く、可能な限り寄付されていたのである。

 

母の壮大な目標に対して、当時の土光は石川島の猛烈サラリーマンにすぎず、時間もなければ、給与も協力するには頼むに足りない。登美はすべて自力で邁進したが、亡くなるときには、「頼むよ」と土光に言った。土光は社業を抱えつつ、橘学苑理事長を継ぎ、母の遺志に応え続けた。肝心なときに充分に力になれなかった悔いが終生あったからだろう。

 

亡くなるまで母がしたように、朝夕法華経を読んで心を清めた。そうしてひとたび仕事に当たれば信念に基づき、合理性を重んじて判断した。よく合理的であることの裏側には、ドライ、冷徹な経営者像がついてまわるが、土光ほどそのイメージがないどころか、求道者的人間像が尊敬を受ける人物もいないのではないだろうか。

 

「個人の生活は質素に、社会は豊かに」。母登美が口癖にしていた言葉を、土光も信条としていた。土光が亡くなって以降、清貧が似合う経営者などどこにもいなくなった感がある。物心両面の豊かさについて、今の経営者は何らかの思いを抱いているのであろうか。

 

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長
専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

日々の事業活動で絶えず問われる経営判断。“経営の源”となる普遍の経営理念とは何か。一代で世界的なエレクトロニクス企業を育て上げ、今なお注目を浴びつづける松下幸之助の経営哲学を基軸に、組織リーダーの決断力と見識を磨く内容でお届けします。


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