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金子直吉、鈴木コンツェルンを形成した男

金子直吉、鈴木コンツェルンを形成した男

(2011年2月23日更新)

 
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戦争特需に乗って、「行け! まっしぐらじゃ」と事業を拡大、神戸の砂糖商を一躍、世界的総合商社にし、なおかつ数多くの製造業を設立して鈴木コンツェルンを形成した男・金子直吉。

学歴もなく、風采も上がらず、自ら「白鼠」と称する男が、狂気に憑かれたごとく事業に邁進したのはなぜだったのか。 

「煙突男」「財界のナポレオン」等々、背中につけられた多くの異名は人間・金子の際立った個性を証明している。金子の破天荒な人となりをふまえつつ、空前絶後の事業設立をめざしたその決断の背景を探る。

 

金子直吉の人となり

金子直吉を名経営者として論じることに異を唱える人がいてもしかたがないかもしれない。というのも金子は自分の会社を潰してしまった企業家であるからだ。神戸の鈴木商店という、三井物産や三菱商事を凌駕したこともある大商社があった、と思いを馳せる人は今や少ないことだろう。

 

しかし、鈴木商店の栄光と挫折は、金子とともにただ歴史の海に沈んだのではない。鈴木の名こそ消滅したが、金子が心血を注いで傘下に収め、手塩にかけて育てた企業群の一部は、神戸製鋼所、帝人、サッポロビール等、今も確固たる地位を築き活動を続けている。その源というのは、実は「煙突病」と揶揄された金子の常軌を逸したともいえる起業家精神にある。

 

鈴木商店は戦争特需の波に乗ったものの、その後の景気後退に資金繰りが悪化、ついに昭和初期の金融恐慌に耐え切れず瓦解する。けれども、金子の産んだ事業は親会社が滅びても日本経済の発展に寄与している。

 

資料や証言による金子直吉という人物は、たいへん個性的である。福沢諭吉の養子だった福沢桃介は金子を、「実業家の風貌も二代三代となると、自然鍍金がのって、綺麗にもなれば品もできるが初代の御面相はお話にならぬ。澁澤栄一、大倉喜八郎、根津嘉一郎等何れも皆然り。金子と来ては抜群なものだ……口大きく鼻低く、眼は小さく、近眼の上、色黒で……人並外れた醜男」と散々に評している。その上、服装にも無関心で破れ帽子に詰襟を着ていたため、大臣官邸の門衛に阻止されたという逸話もある。

 

その一方、日々の行ないは規律正しく、酒や煙草は一切たしなまず、仕事一筋だった。こんなこともあった。

 

ある夕方、金子が須磨の自宅に帰ろうと電車に乗った。あいにく車中は混んでおり、金子は立っていた。すると、前に座っていた婦人が席を譲ってくれたので礼を言って座った。そしていつものように事業のことをあれこれ考えていた。駅に着いたので電車を降り、自宅へ向かう坂道を歩いていくと、先ほどの婦人が前にいて、しかもわが家に入ろうとする。はて、と目を見張ってやっとそれが自分の妻であることに気づいた。金子の仕事中毒ぶりを示す逸話である。

 

慶応2(1866)年、土佐の吾川郡名野川村の貧しい商家に生まれた金子は、小学校すら通えなかった。読み書きも独習だった。十二歳になって高知で丁稚奉公をはじめ、砂糖屋、乾物屋、質屋を転々とした。恵まれない境遇ながら、金子はくさらず商人として身を立てることを誓う。後年、冗談めかして周囲にこう語っていたという。「わしは質屋大学の出身だ。質入れになった本を片っ端から読んだので、法・経・文・理何でもござれの総合大学だから、そう馬鹿にしたもんではないよ」

 

鈴木入りと精進の日々

金子は二十一歳のときに航路神戸に向かう。立身の望みを土佐にとどまって枯らしてしまってはいけないと思うところへ、神戸の鈴木商店の番頭・柳田富士松が偶然金子のいる店を訪れた。そして運よく金子を気に入ってくれて、鈴木入りの口を利いてくれたのであった。

 

当時の鈴木商店は初代岩治郎が輸入砂糖の引き取り・販売をしていたが、店員はわずか二名にすぎず、総合商社の片鱗はまだない。単調な貸し金取り立ての毎日、その上岩治郎の躾は、ソロバンの角で頭を殴りつけるという手荒なものであったから、金子は耐えられず一度土佐に帰郷する。しかし、母と岩治郎の妻ヨネが説得、店に戻った。

 

岩治郎から新しい取扱商品の検討を任された金子は本領を発揮しはじめる。樟脳や薄荷、鰹節を取り扱いに加え、それがいずれも当たったのである。ところが、金子の活躍によって店が個人商店の域を脱しようとしている矢先に、主人岩治郎が急逝する。店じまいも選択肢にあったが、未亡人ヨネは商売をあきらめず、先輩の番頭柳田と番頭になっていた金子の二人に託して事業継続を決定する。二十九歳の金子はヨネの信頼に応えようと事業に精を出した。しかし、思いとは裏腹に金子は大失敗をしてしまう。相場を読み切れず、無茶な樟脳の空売りを続けてしまったのだ。納品の期日が来てもモノはなく、金子はヨネに詫びるしかなかった。

 

しかし、ヨネは金子を叱らなかった。金子は示談で解決するよう諭され、注文を受けた外国商館に出向いた。ところがいくら釈明しても、厳しく督促されるだけだった。意を決した金子はにわかにその場にひざまずき、九寸五分の短刀を抜く。切腹して謝罪するというわけである。芝居じみた行ないだったが、恐れをなした相手の譲歩を引き出し、どうにか少額の違約金で示談をまとめることができた。

 

鈴木商店の飛躍は、この金子の逆境をはねかえす精神力が生んだと言っても過言ではないだろう。早々に金子は先輩の柳田に代わって、鈴木商店の全権を任されるようになっていた。拡大路線のために金子が企図したのは、やはり樟脳であった。故郷土佐が樟脳の産地(樟脳が採れる楠が豊富)であり、また防腐剤、火薬の原料として当時、世界的に大きな需要があったことから、金子はまず樟脳に勝負をかけた。樟脳の大産地・台湾に進出するのである。

 

当時、日本が支配していた台湾で、時の民政長官後藤新平に取り入り、樟脳の政府専売化を献策。そして、明治32(1899)年それが成ったところで、したたかに樟脳および樟脳油の六五パーセントの販売権を獲得した。さらに翌33(1900)年、台湾の現地工場を建設、見事に軌道に乗せる。

 

独自の戦略がもたらした頂点

樟脳で成功したのち、金子は薄荷でも成功、そして明治36(1903)年、卸商のみならず製造にも進出、大里製糖所を設立する。独占的なシェアから流通に圧力をかけてきた製糖所の経営に反発して起業したのである。そして苦難の末、これも立ち上げに成功。業界の健全な再編に成功したと見るや、二百五十万円かけて建設したこの製糖所を競合相手の大日本製糖に六百五十万円で売却、巨額の差益を手にする。これがその後の鈴木商店快進撃の大きな資源となった。

 

大里製糖所設立以降、金子は矢継ぎ早に事業を立ち上げる。母体である鈴木商店は、第一次世界大戦における積極投機によって最盛期を迎える。

 

世界中の軍需品が暴騰すると読んだ金子は、「鈴木商店の大を成すはこの一挙にある。まっしぐらに前進じゃ!」と宣言する。金子がロンドン支店に送った電報は、“BUY ANY STEEL, ANY QUANTITY, AT ANY PRICE” 、ありったけの資産を担保にして、鋼鉄と名のつくものは、何でも、いくらでも、あるだけ買いまくれ、というものだった。そして船舶にも進出、船舶を発注するだけではあきたらず自ら造船所の経営に乗り出す。

 

鈴木が鉄を買いはじめて三カ月、鉄や船舶は高騰する。大正4、5、6(1915~17)年と雪だるま式に売上げは拡大した。その成長は投機の成功によるものだけではない。第三国間貿易という鈴木商店のお家芸ともいわれた商売戦術が功を奏していた。日本でつくったものを外国で売るという貿易だけではなく、世界の相場の動きを把握しながら、外国でつくったものを他の外国に売る。チリの硝石をロシアへ運び、ロシアで積んだウクライナ産の小麦をロンドンへ運んで売りさばくといった大掛かりな商法である。かくして、「SZK・イン・ダイヤモンド」のマークを付けた鈴木商店の船は、積荷を満載にして世界の海を航行する。これはかつて相場で大失敗した経験をふまえ、情報には金に糸目をつけず電報によって世界の情報を集めたことによる勝利だった。

 

五十二歳の金子が若き二十九歳のロンドン支店長の高畑誠一(のち日商岩井会長)に「天下三分の書」を送ったのは、大正6(1917)年11月のことである。

 

「此戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎 然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎 是鈴木商店全員の理想とする所也 小生共是が為め生命を五年や十年早く縮小するも更に厭ふ所にあらず」

 

そして妻の手ほどきでつくった俳句が

「初夢や 太閤秀吉奈翁   白鼠」

 

金子がいかに意気軒昂であったかがよくわかる。白鼠の俳号は、主家に忠実な番頭を意味し(広辞苑)、鳴き声が「チュウ」、すなわち「忠」に通じるからだという。

 

最盛期といわれる大正8~9(1919~20)年において、鈴木商店は従業員三千名、年間取引高は十六億円に及び、かつて三井物産が記録していた最高額十二億六千万円を越え、ついに日本一となる。日本はもとより、世界でも指折りの大商社となった。 

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

 

 


 

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渡邊祐介

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長

専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

 

 

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