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金子直吉、企業家精神(アントレプレナーシップ)の権化

金子直吉、企業家精神(アントレプレナーシップ)の権化

(2011年3月16日更新)

 
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神戸の砂糖商を一躍、世界的総合商社にし、なおかつ数多くの製造業を設立して鈴木コンツェルンを形成した金子直吉。しかし、常軌を逸した企業拡大の末に、挫折の影が忍び寄ってきていた。

 

なぜ常軌を逸した事業拡大をめざしたのか

鈴木商店は砂糖の専門商社から総合商社へ拡大、その余勢を駆って製鋼・造船・金属・化学・繊維・製糖・製粉・製油・製塩・麦酒・製紙といった製造業進出を重点にコンツェルン化した。そこに金子の大きな意図があったことは確かである。現在に至るまでの日本の工業立国の輝かしい軌跡をふりかえれば、「工業化のオルガナイザー」として、金子は鈴木商店を潰した汚名を補って余りある役割を果たしたといえるだろう。

しかし、なぜ金子はそうまでして事業拡大に邁進したのであろうか。ともすれば資金的なリスクにさらされる可能性が出てくるのも理解できていたはずである。

 

考えられる理由はいくつかある。

 

まず挙げられるのが、単純なトップ志向である。三井、三菱を越えて一番になるというのは、経済人としての本懐といえばそのとおりであろう。

 

次には、「工商立国」という金子独自の事業観である。商社としての間口を広げるだけではなく、製造業に進出することを厭わなかった。

 

「損しても得してもいいが、事業家は生産をしなくてはいかん」

 

すなわち製造業を盛んにすることは、すなわち原料を買い、製品を売ることに繋がる。つまり商社の利益のためにも製造業設立の意義があるというのだ。独学ながら博覧強記で知られた金子の頭脳は知識の上でも製造業に対する目利きに相当な自信をもたらしていたのではないだろうか。

 

そして、もう一つ事業拡大の大きな背景としてあったのは、現代の実業人よりも当時の実業人のほうがはるかに有していたと思われる国益志向である。「国家がやらなくてはならんことを、鈴木がやっておる」と、金子は各種工業の育成を、日本の国益と目して追求していた。

 

たとえば、人絹(人造絹糸)である。日本の国際的な繊維産業の地位の高さを考えれば、天然繊維を補う意味で人絹製造の意義は非常に大きい。金子の製造業へのこだわりはすべて国家への奉仕という意識が根底にあった。

 

一商店の番頭にすぎなかった金子はいつから、天下国家のためにのみ、事業を煙突のごとくにょきにょきと多数設立しようとしたのだろうか。考えられるのは事業成長とともに交際が広まった政治家との関係である。後藤新平をはじめ政治家との関係を深めていく中で、彼なりに実業人としての使命感が形成されたのかもしれない。

 

金子は自ら政治家ばりの行動を取ったことがある。第一次世界大戦中、英米は鉄輸出禁止の措置に出た。そのため連合国側であっても鉄が入らず、日本の重工業界は危機に陥った。政治家も動かない。このとき、金子は単身上京してアメリカ大使と会見、戦時により船を欲している相手を見越して、「船を売りましょう。ただし代金は鉄でいただきたい」と交渉、見事に成立させた。この行動は国難を救った美挙とされ、金子に叙勲の話が出た。が、金子はすぐに辞退したという。

 

こうした行動は一実業人でありながら国益を背負うといった使命感と、生来蔵していたヒロイズムが現れたものかもしれない。それと、もしかすれば、顔に似合わぬロマンチシズムといった人間性を持ち合わせていたのかもしれない。

 

金子と女主人ヨネとの関係は封建的といっても差し支えなかったであろう。初代岩治郎亡きあと、ワンマンといわれた金子だが、ヨネに対する誠実さは不変であった。ヨネも、終生「直吉!」と呼んでいた。ヨネの金子への信頼は絶大で、経営不振に陥って金子更迭の話が持ち上がっても耳を貸さず、鈴木商店倒産の報を聞いても顔色一つ変えなかったという。若き頃の大失敗を許してくれた女主人、その恩義に報いんとする気持ちの中に忠誠心と、わずかながらでも恋慕の情がひそんでいたとするのは筆者の思い過ごしであろうか。

 

企業家が持つべき使命感

大戦後の不況を受け、鈴木商店の資金繰りは次第に悪化。昭和二(一九二七)年三月二十六日、取引銀行からの貸し出し停止により万策尽きる。鈴木商店倒産は金融恐慌の引き金となり、その名は栄光よりもその挫折で歴史に名を刻んでしまった。

 

金子の失敗は二つあった。一つは金融の軽視である。「煙突」を建てるばかりで、回転させるための資金繰りの手立てが手薄だった。株式会社化し増資するのは遅かったし、そもそも巨大企業グループを形成しながらその傘下に銀行などの金融機関を持たなかった。金子は金利という不労所得によって社会を牛耳る金融業を批判していた。「日曜祭日は金も遊んでいる。金利を取るな」と訴え、銀行国営論まで述べていた。

 

もう一つの失敗は近代的な経営組織をつくることができなかったことである。優秀な人材はいたが、経営への干渉を恐れて、経理内容の開示を社内においてさえ拒み続けた。トップマネジメントとして独善的にすぎた。肥大化した組織で世代間の断絶も見受けられるようになったが、組織内を調整して解消する有効な対策も打ち出せなかった。

 

こと創造において抜群のセンスを発揮しながら、守成にあっては自らの古く、固陋な経営観から抜け出せず、今風にいえば、グローバル・スタンダードの近代管理経営に適応できなかったのである。

 

破綻後、晩年にかけて金子は黙々と債務処理に携わり、部下の再就職に手を尽くした。後年、近衛内閣の内閣参議に推されたこともあったが、「私は昭和二年のパニックを起こした元凶です」と固辞したという。

金子は、生涯を通じて私財を築く意思に乏しかった。鈴木商店が最盛期のときでさえ、生活費に窮したことがある。ところが社の自分の机の引き出しを開くと給与袋がぎゅうぎゅう詰めに詰まっていたという。晩年の住まいも、かつての部下がお金を集めて建てたものだった。

 

こんな逸話がある。かつての部下が訪ねていくと、「少し金が欲しい」と言う。部下が、生活費のことかと思って、ありあわせの金額を言うと、「今考えている事業のお金じゃ」と答える。思わず部下が失笑すると、「おまえは実業家になる資格がないぞ」とどなったという。金子の企業家魂はその後も不変であった。亡くなる直前まで樺太のツンドラを資源化するという途方もない事業を夢見ていた。

私財のためではなく、公益のために事業を起こす。そのためにはあらゆる可能性を追求する。それが金子の実業家としての本懐なのだった。今、経営者はいるが、金子ほどの使命感を持った人物は幾人いるだろう。金子の存在こそ企業家精神(アントレプレナーシップ)の権化として時には顧みられるべきではないだろうか。

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より 

 


 

渡邊祐介

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長

専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

 

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