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広告の鬼・吉田秀雄、業界地位を引き上げた大局的判断

広告の鬼・吉田秀雄、業界地位を引き上げた大局的判断

(2010年11月 1日更新)

 
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「広告の鬼」の異名をとる電通第四代社長・吉田秀雄が下した決断の背景に迫る。

 

*  *  *

 

一人の経営者のある判断が、業界の悪しき慣例を打ち破るという事件がかつてあった。昭和29(1954)年5月、電通第四代社長吉田秀雄は、最大手の取引先である化粧品会社中山太陽堂からの広告料金支払い期限延長依頼を決然と拒否した。

事件と称されたこの決断の真意は何か。 「押し売りと広告屋はお断り」などと蔑まれていた広告代理業を、近代産業の一角に押し上げるため、「広告の鬼」の異名をとる吉田があえて下した決断の背景を探る。

 

世界の電通を育てた立役者

今や世界の広告代理業のリーダー的地位を占める電通。その発展は、戦後の高度成長期に重なるが、輝かしい成長を牽引した最大の功労者こそ吉田秀雄である。


吉田の功績は電通一社における貢献にとどまるものではない。その業績中最たるものは、現代広告システムの基礎をつくり、「広め屋」などと呼ばれ、低い地位にあった広告代理業を近代産業の一角まで飛躍的に成長させたことである。

 

吉田の人生は紆余曲折に富んでいる。11歳で父に死別し、新聞配達で生計を立てざるを得ない境遇になる。ところが、学業に優れていたことから、見込まれて篤志家の養子に入り、以降生活苦から解放されて、東京帝国大学経済学部まで進学できた。ただし、皮肉といおうか、それだけ養家の世話になっても、彼にとっての心の故郷は、生涯生活の苦しみを分け合った生母であったという。

 

昭和2(1927)年、大学を卒業、就職をめざすが、当時は世界不況蔓延の兆しで就職戦線は最悪、東大卒の肩書きはかえって不利であった。もともと吉田は新聞記者志望だったが、ことごとく失敗してはかなくその夢を断たれた。以降の有力会社の就職には連戦連敗で、結局社名さえ認知していなかった、電通の前身、日本電報通信社に何とかすべり込んだ。吉田にとって広告業との出会いは、選択の余地のない望まざる結果によるもので、運命的というしかない。

 

しかも、当時の広告代理業の地位は現在の感覚とはほど遠いものであった。吉田は社内の雰囲気に絶望した当時の心境を次のように回顧している。

 

「広告取引というものが、本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。ゆすり、たかり、はったり、泣き落としだ。わずかにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道な者にはやれなかった仕事なんだ。(中略)一日も早くこんな商売から抜け出さねば、これは大へんなことになると、実はしょっちゅう考えておった」

(「電通入社二十五周年回顧座談会」)

 

吉田が最初に就いた仕事は、地方局の営業である。広告料金は不定、広告主の立場が異常に強く手数料は叩かれ放題、広告業者のすることは「紙型」を媒体に運ぶだけで、つらい現場であった。

 

ただ、こうした問題が山積した仕事場でも、吉田は懸命に経験を積み、業界の宿弊是正のために同志と語らって勉強会を開くなど、地道な努力を怠らなかった。

 

業界を代表する吉田の活躍

その甲斐あってか、誠実に仕事をこなす吉田はとんとん拍子に出世していく。昭和17(1942)年6月に取締役、同年12月には常務取締役に就任した。まだ39歳である。 戦時経済統制の荒波が広告業界にも押し寄せ、同業者の再編や公正な広告料金算定など業界の諸問題を包括的に解決せざるを得なくなった。現場経験の豊富さを買われた吉田は業界を代表して改革に取り組んだ。その頃の吉田のリーダーシップは、身分こそ一社の常務でありながら、すでに業界の顔としてあらゆる面に及んでいたのである。

 

終戦を経た昭和22(1947)年、44歳の若さで第四代社長に就いた吉田は、民間ラジオ放送開始の立役者となって、財界人として重きをなした。その後の電通の発展を支え、電通の社風ともいえる「鬼十則」を定めたのも吉田である。電通の業容も吉田の活動に比例して拡大成長していったことは言うまでもない。吉田の努力はそのまま広告代理業の確立と地位の向上に大きく貢献していたのである。

 

そんな中、吉田と電通は中山太陽堂事件に遭遇する。この事件に対する吉田の決断こそが、大きな転機を業界全体に与えたのである。

 

広告代理業に回されるツケ

事は、昭和29(1954)年5月末、大阪に本社を置く化粧品製造販売の老舗中山太陽堂が電通大阪支社に対して突然、「資金の手詰まりとその打開策のために、全債権の六カ月の棚上げと、その後の一カ年による分割払いを要請したい」と申し出たことに端を発する。

 

当時、電通の太陽堂に対する債権額は、受取手形で約四千万円、実施済み広告料で手形化がまだのものが同じく四千万円。合計八千万円にのぼる多大なものであった。

 

吉田は太陽堂側の真意を質した。すると、太陽堂社長の中山太一は、「今期の経営は黒字であるから見通しは明るい。今回のことは自分も知らなかった過去の不良資産の発見で甚だ遺憾である。とはいえ、工場関係の資産は無傷だし、銀行からの担保提供の要求に対しても断って、債権者全体の利益のために保全に努めているのでぜひ棚上げに協力してほしい」という。

 

たしかに筋は通っている。しかし、そのあおりを、なぜ電通が食わなければならないのか。その理由はどこにもない。

 

広告代理業システムの近代化がここまで進んでも、広告主の態度は戦前と変わらないのか。吉田は血が沸騰したのであろう。

 

「虫のよい話だ! 絶対に応じるな」と命令した。

 

かくして、6月15日。太陽堂は手形の不渡りが出て倒産となった。

 

近代産業への脱皮のための荒療治

倒産の善後策を協議するために太陽堂の債権者会議が招集された。ところがその大事な会議開催においても、もっとも大口の債権者である電通にその通知があったのは前日の午後10時のことだった。東京にいる吉田が対応できる時間ではない。常識に欠けた行為である。 

 

やむなく代理人を出席させたが、その会議で明白になった事実は、吉田をさらに激怒させた。

 

無傷であると主張していた工場資産は、すでに税金滞納のために差し押さえ処分になっていた。つまり太陽堂は、銀行が見放すほどの悪い状況であったにもかかわらず、財務状況を公開せずに広告代理業を犠牲にして、経営を乗り切ろうという勝手な策を採っていたのである。

 

情報の蚊帳の外に置かれ、電通に対応策などどこにも残されていなかった。

 

そこで、債権確保の最終手段として、吉田は大阪地方裁判所に太陽堂の第三者破産の手続きを強行し、太陽堂は会社更生法の適用を申請した。吉田は、広告主に対して、旧来のなれあいから決別する道を選んだのである。

 

こうした対処は当時の広告業界の理解を得られるものではなかった。広告主をここまで追い込んでよいのか、という心情を同業者でも拭い去ることができなかったのであろう。

 

しかし、吉田は、「これを見逃しては広告界の粛正ができぬ。わが社だけの問題ではない。広告界全体のためにあくまで戦い抜くのだ」と、自らの信念に徹して決断を曲げなかった。

 

戦って勝つといっても、戦利品は名誉以外ないも同然である。この決断によって電通が受けた傷は大きく、部長職以上には年末の賞与を出せなかった。電通発展史の向こう傷というべき損害かもしれない。  

さらに吉田は事件にとどめをさすように、数万部の発行を誇る電通発行の広報誌臨時版に、この一連の事件経過を大々的に報道させた。得意先ならず、全産業界に自社の正当性を訴えるのは例を見ないことである。反響は相当大きなものとなり、つまるところ、この広報によって太陽堂の一件が「事件」として記録に残ることになった。また見ようによっては、吉田の決断の徹底ぶりこそ「事件」の正体だったのかもしれない。

 

翌昭和30(1955)年、吉田は、社名を晴れて「株式会社電通」と変更し、新たなコミュニケーション創造企業への転進を宣言した。前年の太陽堂事件の意義は、古い体質の広告代理業からの決別を果たし、新生電通を誕生させるための一里塚といったところであろうか。

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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