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本田宗一郎、自説を捨てても、開発遺伝子を伝える

本田宗一郎、自説を捨てても、開発遺伝子を伝える

(2011年5月 6日更新)

 
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天才的技術、そして強烈な個性とバイタリティーで、創業から二十年で世界に冠たる企業に成長させた本田宗一郎。四輪車のエンジン開発で、自説を捨てても開発遺伝子を伝えた、その決断の背景に迫る。 

 

*  *  *

 

H1300の失敗

最初の試作車から九年、いよいよ念願の普通車として、小型乗用車H1300が開発された。本田がこの車に求めた使命は、「やるからには、先に行くトヨタ、日産の鼻をあかすクルマでなくてはならないんだ」ということだった(『語りつぎたいこと チャレンジの50年』)。

 

その鼻をあかす具体的選択の一つが「独創的空冷エンジン」となったのである。本田にとってはN360が成功したのであるから、この選択は奇異でもなかったのであろう。ただ、部下の研究員らは、軽自動車と普通乗用車の違いを別世界だと感じていた。本田の陣頭指揮におけるたび重なる設計変更も、本田と彼らの溝を深めるものだったらしい。

 

そもそも空冷エンジンと水冷エンジンの違いは、文字通りエンジンの冷却方法にある。空冷エンジンは走っているときの空気をエンジンに当てて冷却する。水冷エンジンはエンジンの周りに水を循環させて冷却する。二輪車は空冷エンジンが主流だが、四輪車は水冷エンジンが基本とされている。なぜなら四輪車のエンジン排気量が大きくなればなるほど、機能的に空冷の不利が際立ってくるからだ。

 

もちろん、本田も空冷の課題を理解し、水冷エンジンにくらべ大きくなる騒音の軽減とかさを小さくする努力を続けた。そして、DDAC(一体構造二重壁空冷方式)という新エンジンにたどり着いたのである。

 

努力の甲斐あってH1300は高い性能を誇り、ライバル社を驚かせた。トヨタ自動車工業・豊田英二社長(当時)は、自社の技術者に対して、「ホンダは1300ccで百馬力を出している。なぜウチではできないのだ」と雷を落としたという。技術的にはたしかに鼻をあかすクルマが誕生したのであった。

 

しかしそれでも結果的に、H1300は営業的に失敗に終わってしまった。いろいろな見方があるなかでも、とくに政治的な要因が大きかった。アメリカの新聞が輸入していた日本車の欠陥を報じたことがきっかけとなって、日本のマスコミも欠陥車キャンペーンを展開、業界各社それぞれに欠陥車が指摘され、ホンダではN360が標的となった。このため同車の売行きは激減した。さらにこうした報道がもたらした消費者心理の影響から、高性能、高馬力のH1300はその品質の高さにもかかわらず、消費者に顧みられなくなってしまった。

 

当時の開発担当者は反省の弁として、「お客様の視点というものを意識していたつもりだったが、結果としては技術というものが前面に出てきてしまって、このクルマが最終的に、・どんな人たちに、どんなふうに乗ってもらうか・ということが不明確になってしまっていた」と述べている(同前 )。

 

問題はそれをどう修正するかであり、その焦点が「空冷vs水冷エンジン論争」となったのである。

 

昭和四十四(一九六九)年七月、軽井沢で本田技術研究所の研究員六十人が集まって「なぜ、H1300は売れないのか」をテーマに集会を開いたとき、総括されたことは――空冷エンジンにこだわったことで、ほかの部分に問題を生んだということ。そして、一般のお客様が日常使われる、普通の道具として成り立たせるために、さらにアメリカの排ガス規制対策に至急対応しなければ輸出ができなくなるという事態を打開するには、水冷エンジン開発に絞るしかない――ということだった。

 

本田はH1300の失敗にもかかわらず、なお空冷エンジンにこだわっていた。排ガス規制に対しても空冷エンジンで乗り切ろうと考えていた。ここに研究員との葛藤が頂点となり、藤澤がその調整に当たった。

 

冒頭の藤澤の説得劇に向かっていったというわけである。 

 

遺伝子継承のためのエポック

 

「空冷vs水冷エンジン論争」とは、どのように評価できるであろうか。

 

偉大な創業者は意地に捉われず、最後には経営者としての自覚が上回って危機を打開した。そうした捉え方をして、本田を賞讃するだけでももちろん大きな意義はあろう。ただ、もう少し考えるならば、本田が空冷エンジンを通してこだわっていたのは何であったのか、ということである。

 

空冷エンジンが得意だったから、というのではけっしてない。

 

本田が自らに課し、また部下にも求めていたのは、まず・ホンダらしさ・すなわちオリジナリティであり、そして、もう一つ“世界を視野に”であった。だからこそ、あえて難度の高い道を選んでいたのである。

 

本田が当初から水冷エンジンを採用していたら、たしかにこの決断の機会は必要なかったことだろう。しかし、そんな本田だったらホンダ神話もなかったのではないだろうか。無謀と偉大な革新は紙一重なのかもしれない。しかし、本田はこれまでいつもその危険な挑戦に勝ってきた。

 

今まで通用していた自らのリーダーシップの限界を悟り、あとを部下に託すという大きな決断。そこで託された側も、この一技術の選択から、“ホンダらしさ”と“世界を視野に”を追求し、開発力の遺伝子を証明する責任が課せられた、という見方ができよう。

 

したがって、この論争の二年後、昭和四十六(一九七一)年、世界初の低公害エンジン「CVCC」が発表されたということは、それこそ本田の決断が正しかったことを見事に証明したものではなかったか。

 

昭和四十八(一九七三)年八月、本田はCVCCエンジンの成果に関してこう述懐している。

 

「CVCCの開発に際して、私が低公害エンジンの開発こそが先発四輪メーカーと同じスタートラインに並ぶ絶好のチャンスだと、言ったとき、研究所の若い人は、排気ガス対策は企業本位の問題ではなく、自動車産業の社会的責任の上からなすべき義務であると主張して、私の眼を開かせ、心から感激させてくれた」

(『本田宗一郎 夢を力に』)

 

自分よりも新しい価値観を身につけていた世代に、本田は安心して任せる気持ちになったのではないだろうか。

結局、「空冷―水冷エンジン論争」の決断は、遺伝子継承のためのエポックという位置づけになるのではないだろうか。

 

昭和四十八(一九七三)年、本田と藤澤はそろって、社長、副社長を退いた。クライマックスのあとのさわやかな幕切れだったといえよう。

 


 

渡邊祐介

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


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