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大原孫三郎、鬼気迫る社会福祉事業の推進

大原孫三郎、鬼気迫る社会福祉事業の推進

(2012年9月 7日更新)

 
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地方の名望家・実業家として紡績・銀行・電力といった事業を育てつつ、全国に例を見ない社会福祉事業を推進した大原孫三郎。鬼気迫る社会事業への真意とは? 回心がもたらした大転換の真相に迫る。

 

* * *

 

総理大臣の年俸が一万円の時代、故郷をはなれ東京に遊学してきた青年は、悪友にそそのかされ、放蕩をくり返し、高利貸しから一万五千円の借財を背負う。その借財処理のために奔走してくれていた義兄を心労から死へ追いやった罪の意識、また傷心を抱いて戻った故郷で出会ったクリスチャン福祉事業家の石井十次との邂逅が、青年に一大回心をもたらした。

 

地方の名望家・実業家として紡績・銀行・電力といった事業を育てつつ、孤児院援助から学術振興、地域医療の充実、美術館設立等に至るまで全国に例を見ない社会福祉事業を推進した大原孫三郎の決断の背景には、どのような思想が貫かれていたのであろうか。

 

膨大な福祉事業の推進

大原孫三郎は企業の公器性をいち早く認識し、慈善事業、社会事業、メセナを実践した。特筆すべきはそうした事業を、だれに言われたわけでもなく、政治的に利用されたわけでもなく、真に一個の経営者的決断のもとに実行したことである。

 

主な事業を挙げてみる。

 

〈慈善事業〉

◆岡山孤児院への援助

――クリスチャン石井十次が興した孤児院を支援。石井の死後、自ら院長にもなる。全国一の規模を誇る孤児院となった。

 

〈社会教育事業〉

◆倉敷日曜講演の開催

――人びとの宗教・道徳心の培養、向上のため、月に一回名士を招いて講演会を催した。大隈重信や新渡戸稲造も参加したことがある。

 

◆大原農業研究所の創設

――農民の福祉向上を目的として、農作業の改良をめざすと同時に農学に関するさまざまな課題を科学的に研究するために創設した。

 

◆大原社会問題研究所の設立

――社会問題・労働問題の調査研究、外国文献の翻訳、関係図書・資料の収集と公開などを目的として設立。所長には高野岩三郎博士が就任した。櫛田民蔵、権田保之助、森戸辰男、大内兵衛、久留間鮫造、宇野弘蔵、笠信太郎など、新進気鋭の研究者が結集して、労働問題研究や社会調査など未開拓の分野で数多くの先駆的業績を上げた。

 

◆倉敷労働科学研究所の創設

――大原社会問題研究所から労働問題研究に特化し、倉紡万寿工場内に分離した研究所。大原は、理論に走る学者たちに対して、労働者の状態を現場で把握し、科学的に改善されることを希望していた。

 

〈社会資本の整備〉

◆倉敷中央病院の開院

――治療本位、明朗にして平等公平、東洋一の理想的な病院を方針として設計、開院した。

 

◆大原美術館の創設

――大原の支援により洋行し、修業していた洋画家の児島虎次郎に西欧絵画の名品を収集させた。

 

◆日本民藝館の設立支援

――柳宗悦の民藝運動に共鳴し、自らも全国の民藝品を収集、設立を支援した。

 

このほかにも倉敷町の電話開設に私財を投じたり、倉敷図書館の開設に寄与したり、大原家所有の庭園新溪園を市民公園として寄付したりと、営利事業以外に大原が行なった活動の多さには驚くばかりである。大原をして、こうした社会福祉事業に向かわせたエネルギーの源泉はどこから生じたのであろうか。まずその生いたちからたどらなければならない。 

 

恵まれた生いたちと東京での失敗

明治十三(一八八〇)年、大原は岡山県倉敷に倉敷紡績を創業した大原孝四郎の三男として生を享けた。大原家は元禄時代から繰綿商として家産を蓄え、のち米穀商も兼ねた。祖父壮平の代に幕末の混乱による物価騰貴から土地を手放す農民がふえ、機を見るに敏な壮平は一手に買い占め、倉敷一の大地主となった。土地の所有は県下三九町村にまたがり、有する田畑は八〇〇町(二四〇万坪)に及んだというから、いかに恵まれていたかが推察できる。

 

大原の父孝四郎は養子であったが、才覚に優れ、明治二十(一八八七)年、近代産業の勃興に乗って、綿の集散地であった倉敷に綿糸紡績工場設立の機運が高まり、孝四郎が資本を提供し、初代頭取(商法施行により明治二十六〔一八九三〕年から社長)に就任していたのであった。

 

何不自由なく育った大原が、初めて世間の風当たりを知ったのは、もと岡山藩の藩校閑谷黌の予科に入った時である。大地主の子であることから自然に特別扱いを受けていた大原は、ある夜、それをよからず思う同級生たちから手荒い制裁を受け、夜具に押し込められるという奇禍に遭った。圧死するところを、歯を食いしばって耐えた。この事件はすでに田舎に倦怠を感じていた大原に決定的な決別を促し、東京への遊学の道を選ばせた。

 

明治三十(一八九七)年、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学したが、実家の資産をもとに悠々と暮らす身には、東京はやはり危険な地であった。大原の金を目当てに悪友が群がり、花街へ繰り出させる。大原は元来正義感が強く、上京時に知った足尾鉱毒事件に義憤を感じ、現地調査をするほどの行動力も持ち合わせていた。しかし、若いエネルギーは遊興に回され、結果的には気がつけば一万五千円を数える借財を高利貸しから背負っていた。現在の金銭価値でいえば、一万倍の一億五千万円に相当する額である。

 

いかに“資金”に恵まれていたといっても、この額となると首が回らない。大原は帰郷し、父孝四郎の逆鱗に触れる。高利貸しも大原を追って倉敷に乗り込んできて孝四郎に返済を迫った。このときの孝四郎の対応は見事で、大原家を信用して未成年の息子にかくも大金を用立てたと高利貸しを丁重にもてなし、子細を調べた末に返済すると約束した。そして、その実務に大原の義兄原邦三郎を上京させた。原は優れた国際派ビジネスマンで、中国で紡績業を展開しようとその可能性を探っていた。しかし、孝四郎に頼まれ、義弟大原の債務処理に忙殺されることとなった。

 

このとき、大原にとっても痛恨の事態となったのは、この義兄が東京で高利貸しとの交渉中に脳溢血を起こして急死してしまったことである。自分の自堕落な行ないが尊敬する義兄の命を奪ってしまった事実は、傷心の大原に追い討ちをかける衝撃となった。この苦い経験が大原の人生の転機となったのである。

 

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

     


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