課長職にマネジメントの革新を!
RSS

土光敏夫の決断~石川島重工業と播磨造船所の合併

土光敏夫の決断~石川島重工業と播磨造船所の合併

(2011年1月13日更新)

 
  • はてなブックマーク
  • Yahoo!ブックマーク
  • Check

合併――それは企業が成長するための飛躍的な手段である。大が小を資本の論理で強引に併せ呑む合併が主流の中、石川島重工業と播磨造船所の合併は、マスコミも驚く電撃的かつ・恋愛結婚・と称されるほど理想的なものであった。 

その演出者・土光敏夫は、のちに東芝の再建、経団連会長、臨時行政調査会会長となって常に世直しの先頭に立った。

世間が頼り続けた経営手腕の原点は、やはり石川島播磨重工業の誕生劇にあったといえよう。人間味あふれる土光の決断の背景にあったものとは……。

 

 

意表をついた発表

昭和35(1960)年7月1日、午後2時、東京会館で行なわれた記者会見はざわついた。石川島重工業の土光敏夫と播磨造船所の六岡周三の両社長が雛壇に並び、両社の合併が唐突に発表されたのである。

 

会見で土光は言った。

 

「貿易の自由化に対処して企業の合理化を推進するのが、この合併の狙いであります。不況にある造船部門も必ず近いうちに立ち直ります。この合併によって一プラス一を二にするだけではなく、核融合を起こして三にも四にもしてみせます」

 

それは断固たる、しかも確信に満ちた声明だった。資本金で見れば、52億円と40億円。従業員は約9千人と約6千人。年間生産能力は約4百億円と約2百億円の大型合併であった。

 

誕生する新会社の名は石川島播磨重工業株式会社、略称はIHIである。

 

「まさに寝耳に水」(『毎日新聞』昭和35年7月2日付朝刊)と書かれた合併劇は、マスコミのみならず、造船造機業界にも大きな波紋を呼んだ。

 

しかし、だれよりも驚いたのは、従業員だった。石川島では、部課長、労組に合併の合意が伝わったのは記者発表当日の午前8時、全従業員に伝わったのはそれからのことである。労組委員長が思わず叫んだ。

 

「社長、発表の直前に知らせるとは何事ですか。事前に労組に意向を打診するのが筋ではないですか!」

 

「悪かった。役員にさえ長く秘密にしてきた。そこを理解してもらいたい」

 

合併論議が騒がしくなれば成るものも成らなくなる。土光があっさり申し開いたので、だれも返す言葉もなかった。合併を交渉した当事者は両社長のほか、3人ずつの担当者、実は計8名にすぎなかったのである。

 

当時、日本経済の大変動を予見して、製造業界に異変が起こりそうな予感はすでにあった。しかし、造船業界においては、それぞれの思惑が交錯しだれも舵取りをしなかった。それゆえに、土光の合併劇は周囲の逡巡をさしおいて鮮やかに映った。播磨造船所との吸収合併をひそかに企図していた川崎重工専務・砂野仁(のち社長)は、「こちらが半年以上もぐずぐずしているうちに、土光さんはわずか3日で決断してしまった」とくやしがった。

 

陸と海の結婚

 

土光が合併を意識しはじめたのはその一年前のことである。造船業界の会合で播磨造船の六岡と会食をした。そのときの六岡のさりげない言葉がきっかけだった。

 

「播磨造船は造船部門の比率が高すぎて、造船の景気が悪くなると業績を直撃するのです。土光さんのところのように、陸上機械部門が強いとショックを吸収できるんだがなあ」

 

土光は驚いた。石川島との状況の違いが際立っていたからだ。

 

朝鮮戦争による米軍からの特需によって、日本の造船業は飛躍を遂げ、世界一の座にかけのぼった。しかし、昭和33(1958)年から世界的に海運業が不況に陥り、造船業もあおりを食っていた。六岡の悩みはそこである。

 

一方、石川島は全事業のうち造船部門が二割、陸上機械部門が八割だから、造船での影響は深刻ではない。しかし、土光はもっと先を見て別のあせりを感じていた。

 

(これから世界のエネルギーは石油の時代になる。そうなれば不況は一転し、大型タンカーの需要で好況に転じるのは間違いない。逆にそのときになって船を造るドックがなければ競争に負けるのは必然だ。造船部門の強化を急がねばならない)

 

昭和34(1959)年に、ブラジルに石川島ブラジル造船所を完成させ社の造船能力を三倍にしたが、それでも三万トン級タンカーの建造しかできない。ライバルの三菱重工、日立造船などは十万トン級タンカーを建造できるドックを持っていた。

 

(十万トン級の船を造れるドック建設に踏み切るかどうか)

 

それが土光にとって大きな懸案だった。

 

「六岡さんのところとは逆に、石川島は造船が弱いのです。大型タンカーの時代が目前に来ているのに、今の石川島のドックや技術では対応できない。せっかくのビジネスチャンスを、指をくわえて見ているしかありません」

 

正直にそう答え、

「世の中うまくいかないものですなあ」

と二人でこぼし合ったあと別れた。

 

しかし、このひとときの会話で、「お互いに、成り成りて成り合わざるところと、成り成りて成り余れるところとがある。これならうまくゆくのでは」と、土光は瞬時に合併を意識したのである。社に戻ると、腹心の部下を呼び、指示を出した。それは、「播磨造船所の調査をしてほしい。内密に」というものだった。

 

播磨造船所に関する調査資料が続々と土光のもとに届けられる。こと造船に関して播磨造船は三菱重工、日立造船に次ぐ第三位。兵庫県の相生にある大型ドックは業界屈指である。合併の意義を確信した土光であったが、それでも資料の吟味にゆっくりと時間をかけ、最終的に意志を固めたときは、六岡との会食から半年が経っていた。

 

それだけの時間をかけた裏には、おそらく合併に至るまでの土光なりの算段をつけたり、想定され得る事態への対処を思索したり、また合併後の混乱なき事業推進への対策を練ったり、といったことがあったのだろう。

 

合併という難題の推進に、もっとも大事なのは交渉である。播磨造船の六岡は小唄が得意な都会人。かたや夜の付き合いが苦手な土光は普段料亭に行くことはない。しかし、今はそんなことをいっておれない。土光は六岡社長を赤坂の料理屋に招待し、予定の一時間前に赴いて、玄関で六岡を待った。腹を割って合併の話を切り出すと、同じく技術屋経営者で合理的な六岡はすぐに土光の意向を理解し、話は一夜にしてとんとん拍子に進んだのであった。 

 

『決断力の研究』(渡邉祐介著 PHP研究所刊)より

 


 

watanabe.jpg

渡邊祐介

 

わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部 研究部長
専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史

松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。


メールマガジン

更新情報をメルマガで!ご登録はこちらからどうぞ