人的資本経営とは? そのメリットや推進方法を具体的に解説
2024年4月11日更新
「人的資本経営」とは、従業員の能力開発に焦点をあてる経営の「あり方」で、中長期的な企業価値の上昇に効果的であるといわれています。これまでも日本企業は「人を大切にする」ことがその特徴でしたが、人的資本経営は「理念」「社是社訓」で掲げるだけでなく、実際に企業の成長発展に寄与するべく、経営層と人事部門、現場が協力し合い、具体的な施策やKPIに落とし込んで推進していくことが求められます。この記事では人的資本経営の意味や取り組むメリット、推進手順について解説します。
INDEX
※PHP研究所では、創設者・松下幸之助の人間観をベースに、人的資本経営を推進するための考え方をご紹介するeBookをご提供しています。
人的資本経営とは
人的資本経営とは、企業を支える従業員に焦点をあて、一人ひとりのパフォーマンスを高めて企業価値の向上につなげる経営のことです。経済産業省は次のとおり、ホームページで定義を説明しています。
人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です。
※参考:経済産業省「人的資本経営 ~人材の価値を最大限に引き出す~」
まずは人的資本の意味や人的資本経営と従来の経営の違い、注目が集まる理由を解説します。
人的資本の考え方
人的資本とは、各従業員がもつ資質(主体性、協調性、倫理観など)や能力(知識、技能、技術など)を、企業に付加価値をもたらす資本とみなす考え方です。
今まで人材は資源の一つと考えられ、予算と同様、製品やサービスを生み出す際に消費される性質をもつと考えられてきました。したがって、限りあるリソースを有効活用するための効率性が重要となっていました。
一方、人的資本経営では、従業員の価値を投資によって高めることが可能である資本と捉えます。従業員の素質や能力を向上させる取り組みを行うことで、生産性の上昇やイノベーションにつながり、企業に経済的収益をもたらすことが可能です。
資本は、実体がある有形資本と実体がない無形資本に区別され、能力や経験などの目に見えない人的資本は後者に位置づけられます。
人的資本経営と従来の経営との違い
人的資本経営と従来の経営の違いは、人材を利益や価値を生む資源であると捉えるかどうかにあります。
経済産業省の「人材版伊藤レポート2.0」では、人材マネジメントの目的やアクション、イニシアティブなどの側面から、今までの経営手法との違いがまとめられています。
参考:経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~ 人材版伊藤レポート2.0~ 」
従来の経営における人材戦略は、人事制度の運用・改善が主たる目的とされ、企業戦略との関連性や整合性が軽視されていました。一方、人的資本経営の人事戦略は、持続的な企業価値の向上を目指す活動で、経営戦略やビジョンとの一貫性を考慮して全体最適の視点から設計します。
また、従来の人事部門は単独で企画や立案を行うため、閉鎖的で経営陣や外部の投資家とのつながりが薄いことが問題視されてきました。
全社的に取り組む人的資本経営では、多様な視点を取り入れたオープンな組織が作られやすく、人材戦略は価値創造のストーリーとして従業員や社外に対して積極的に発信されます。
人的資本経営に注目が集まる背景
人的資本経営に注目が集まる理由は、価値観や働き方の多様化を受け、企業に求められるものが変わりつつあるためです。無形資産への評価の高まりや、ESG投資の興隆は見逃せない動きです。
ここでは人的資本経営が着目される背景について解説します。
無形資産に対する評価の高まり
人的資本経営が注目される大きな理由として、投資判断の指標として無形資産を評価する傾向が高まりつつあることが挙げられます。形がない資産には、研究開発活動でもたらされた知見のように、将来の企業価値に影響を与えるものも含まれます。
そのため、投資家が投資先の将来性を測るうえで、人的資本経営にかかる指標の開示を求める動きが活発になっているのです。
内閣府の発表から、有形固定資産への投資が伸び悩んでいる一方、無形固定資産への投資は徐々に増加しつつあることが読み取れます。無形固定資産に向けた投資は景気の変動に伴う投資額への影響も少なく、企業価値を測る安定した指標の一つになっています。
人材や働き方の多様化
少子高齢化による労働人口の減少や外国人の積極的な活用を受け、働き方や企業で働く人材はかつてないほど多様化しています。
能力や経験、価値観、人種など、異なる人材が同じ組織で働く場合、個々の従業員に焦点をあてる人的資本経営との相性が良い環境だといえます。
個人の特性によって力を最大限に発揮できる領域は異なるため、個々の特性を踏まえた適材適所の人材配置が必要です。フレックスタイムやリモートワークの導入を通して、従業員が自らの個性を生かせる環境作りや、評価制度を整える動きが今まで以上に高まっています。
ESG投資における人的資本の重要性
社会や環境への影響を踏まえたESG投資のニーズが高まっていることも、人的資本経営に注目が集まる背景の一つです。
企業の価値は製品やサービス評価のほか、サステナビリティ(持続可能性)も考慮されます。例えば、地球温暖化対策への取り組みや、ジェンダー・貧困問題への意識、働きやすさを向上させる福利厚生制度の拡充などに取り組む企業は、投資家からの評価を得やすくなっています。
ESG投資の判断を行う際には、労働慣行や健康・安全、ダイバーシティに至るまで幅広い観点での情報収集が必要です。これらには人的資本に関する情報が多数含まれるため、人的資本経営を推し進める動きが大きくなっているといえます。
DX推進における経営戦略
思うように進展しないDX(デジタルトランスフォーメーション)の進展という観点からも、従業員一人ひとりの能力の向上につながる人的資本経営は注目されています。
業務効率化を目的としたIT化が進む一方で、企業に付加価値をもたらすDXに成功した事例は必ずしも多くありません。DXが普及しない主たる理由の一つは、経営戦略の立案を担う専門的な人材が足りていないことです。
研修を充実させたり、中途採用で即戦力の人材を獲得したりしなければ、DXのスピーディーな進展は難しいようです。研修費用や研修期間中の従業員の給料は短期的にはコストに該当しますが、知識の獲得や能力の向上による中長期的な価値を考えると先行投資に該当します。
能力開発にコミットした人的資本経営は、新たな時代を切り開くDX人材の育成や獲得につながることも期待されています。
企業が人的資本経営に取り組む3つのメリット
人的資本経営に取り組むメリットとして、「従業員の能力や特性を踏まえた研修計画の立案・実行」「企業規模の生産性向上」「社会的信用の向上」が挙げられます。
パーソナライズした的確な能力開発が実現するほか、従業員からの信頼も得られ、結果的に企業利益の増大につながります。
また、社会的なイメージを高められることも大きな利点です。人的資本経営に注力すると得られる効果について解説します。
人材のスキルや能力が明確になる
人的資本経営を推進すれば、従業員の教育や研修の過程で各人がもつ能力やスキルを一定程度可視化することが期待できます。従業員一人ひとりが得意な業務や性格面の特性が明らかになることで、力を発揮できる適材適所の人材配置や、不足する能力に特化した効率的な研修の実施につながるでしょう。
ビジネスの世界では現状を「As Is」、「To Be」を理想像とみなし、両者を明確にして差異をなくす取り組みを推進するフレームワークが存在します。
人的資本経営でも戦略上求める人材を特定し、可視化された従業員の能力やスキルから研修計画を立案することが重要です。
エンゲージメントが高まり生産性向上が期待できる
人的資本経営では従業員の成長を第一に考えるため、社内のエンゲージメントが向上しやすい傾向があります。利益を重視して社員を道具のように扱う会社と、人材投資に積極的で能力の向上にコミットする会社を比べると、労働に対するモチベーションは変わってきます。
社内のエンゲージメントが高まれば、マネジメント層の厳しい管理がなくても、各人が自発的に最大限のパフォーマンスを発揮しようとして利益の向上につながるでしょう。帰属意識も高まりやすく、離職率の改善にも効果を示す場合があります。
企業イメージが向上する
人的資本経営に取り組むと「従業員を大切にする会社」として社会からの評価が高まり、企業イメージが向上します。人材育成・活用に積極的に励む姿は、外部のステークホルダーから好印象を得られるでしょう。
特に無形固定資産への注目度が高まる昨今、投資家は企業価値の向上に人材が重要な存在であることを十分に理解しています。人的資本経営に対する情報を積極的に開示することで資金調達もしやすくなり、迅速な事業拡大へとにつながります。
また、従業員を大切にする企業というイメージが広がれば、求職者に向けたアピール材料にもなります。即戦力の中途採用、有望な新人採用につながる取り組みと言えるでしょう
人的資本経営「3つの視点」と「5つの共通要素」
「人材版伊藤レポート」では、人的資本経営を推進する際の枠組みとして「3P・5Fモデル」を提唱しています。人材戦略に必要な3つの視点と、戦略に組み込むべき5つの共通要素を明示したフレームワークで、人的資本経営に取り組む企業のガイドとなります。
ここでは3P・5Fモデルの各項目や、枠組みに沿った進め方について解説します。
3つの視点(Perspectives)
「人材版伊藤レポート」によると、人材戦略の立案に必要な視点を次のように定義しています。
- 経営戦略と人材戦略の連動
- As is-To beギャップの定量把握
- 企業文化としての定着度
人的資本経営を推進する際には、人事部は上記3つの視点を意識して具体的な戦術、施策に落とし込む必要があります。経営戦略と人材戦略を連動させるためにも、まずは自社が進むべき道と、そのために求められる人物像を明確に描く必要があります。
新たなテクノロジーの発展によって、AIやロボットと協働する力や、イノベーションの源泉となるイマジネーション力の重要性が高まっています。人的資本経営に乗り出す企業の場合、ベースとなる経営戦略から再考するべき状況かもしれません。
さらにいえば、人材戦略はを企業文化として定着、浸透させる必要があります。経営トップが理念やパーパス、行動指針を発信し、人事部が主体になって具体的な施策、制度に落とし込んでいくことで、従業員の意識は変わります。とはいえ、一朝一夕に成果が出るものではありません。経営層、人事部としては「人的資本経営の推進は継続的、長期的な活動である」という信念が不可欠といえます。
5つの共通要素(Common Factors)
「人材版伊藤レポート」では、業種に関係なくすべての企業に当てはまる5つの共通要素を次のとおり定義しています。
- 動的な人材ポートフォリオ
- 知・経験のダイバーシティ&インクルージョン
- リスキリング(学び直し)
- 従業員エンゲージメント
- 時間や場所にとらわれない働き方
「動的な人材ポートフォリオ」とは、従業員の配置状況や各個人の能力や経験を一覧にして、リアルタイムで参照できるようにまとめたデータベースです。直面する課題の解決に向けて求める人材を迅速に特定でき、将来的な戦略の策定にも役立つ重要なアセットです。
「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」は、多様なバックグラウンド、価値観、能力、経験をもつ人材を受け入れ、さまざまな障壁をなくし、イノベーションや持続的な発展を目指す考え方を表しています。
「リスキリング」とは、従業員の新たな知識の習得を支援して、能力開発を推し進めることです。企業を取り巻く環境が目まぐるしく変化するなか、ビジネスやテクノロジーにかかる学びはすべての社員に必要となります。
「従業員エンゲージメント」は、愛社精神や貢献意欲とも称され、従業員が能力を十分に発揮し、企業に最大限の利益を還元する土台となる重要なものです。働く人がやりがいや働きやすさを感じる環境がなければ、ポテンシャルの発揮は難しくなるでしょう。
そのため、「人材版伊藤レポート」では「時間や場所にとらわれない働き方」を掲げ、各人の事情を考慮したフレキシブルな労働環境の整備を推奨しているのです。
人的資本経営で企業が情報開示すべき19項目
人的資本経営では、人材戦略の立案や労働環境の整備と並んで「情報開示」も重要項目に位置づけています。ESG投資の対象となり、さまざまなステークホルダーに企業価値を正しく知らせることは不可欠です。人的資本経営の情報開示が望ましいとされる項目は次のとおりです。
日本では2023年3月期決算から人的資本経営の情報開示制度が始まりました。対象は有価証券報告書の発行が求められる約4,000社の上場企業です。上記の7項目19指標に沿って、人材戦略や環境整備の方針、目標、指標などを明記しなければいけません。
開示項目は、投資家からの評価の獲得を目的とした価値向上に関する内容と、ネガティブな評価を回避するリスクにかかる情報開示に分かれます。両者は明確に分けられるとは限らず、一つの開示項目のなかに価値向上とリスク回避の双方の内容が含まれるケースも珍しくありません。
2024年3月現在、具体的な開示項目や開示の範囲は企業の自主的な判断に委ねられています。情報開示の恩恵を受けるためには、開示ニーズを見極め、ステークホルダーの要求を満たす項目の選択と開示が求められます。
7分野19項目の詳細や情報開示の際に押さえておくべきポイントが知りたい方は、次の記事をご覧ください。
※参考:「人的資本の情報開示~義務化の内容と19項目をわかりやすく解説」
海外における人的資本経営の動き
人的資本経営は日本だけの潮流にとどまらず、国際的なトレンドです。2018年、国際標準化機構(ISO)が「ISO30414」を策定し、情報開示の基準や人材戦略のベストプラクティスをまとめています。
ISO30414関連の取り組みを行う先進国の事例をみてみましょう。米国では証券取引委員会の主導で上場企業における人的資本情報の開示制度が始まりました。具体的な開示項目や範囲は企業の自主性に委ねられていますが、人的資本経営の開示内容に関しては法律の整備が進む中にあり、今後は情報開示項目が拡大する見通しが立っています。
EUでは2023年1月にサステナビリティ開示に関する法令「CSRD」が改定されました。約5万社を対象に、2024年から段階的な適用が始まります。対象となる企業の広さや1,000を超える指標、自社の事業とサステナビリティの指標との関連性を表すマテリアリティ評価の導入が特徴的です。
人的資本経営に企業として取り組む手順
人的資本経営を推し進める際の一般的な手順は次のとおりです。
- 経営層と人事部の認識をすり合わせる
- KPIを設定する
- 施策を実行して効果検証する
上記のフローに沿ってPDCAサイクルを回し、改善点を補いながら改革を進めることで成功に近づくでしょう。各手順の内容や注意点を紹介します。
手順1.経営層と人事部の認識をすり合わせる
まずは、3P・5Fモデルの3つの視点にあるように、経営戦略と人材戦略を連携させることが重要です。経営部門と人事部門の間で意思統一が不十分だとお互いの意図がつかめず、企業として一貫性がある戦略の立案が難しくなります。
経営層と人事部門の認識をすり合わせるには、経営戦略の策定時に人事の現場に詳しい人材を迎えて意見を聴くことが重要です。また、人材戦略を決める際にも、経営層の意図を明確にしなくてはいけません。
社内で人的資本経営を通じて何を実現したいのか、具体的なゴールを設定することも重要です。今までの取り組みによって得られた知見を洗い出し、理想の状態との差分を考えると、必要な戦略が見えてきます。
人的資本経営の推進に伴い、経営理念の再確認、浸透を図りたいという方は次の記事をご参考ください。
手順2.KPIを設定する
目標が定まったら、現在地点を判断するためのKPI(重要業績評価指標)を設定しましょう。人的資本経営でKPIを設ける場合、自社の独自性を表す評価項目も設けると好ましいといわれています。
企業の信用度を判断するうえでは、掲げた目標の実行可能性や、ビジョンを実現に導く意思の強さを伝える必要があります。単なる理想像の押し付けにとどまらず、描いた未来を実現させる力があることをステークホルダーにアピールするためには、自社の強みをもつことが効果的です。
例えば、従業員の働きやすさを第一に考えるならば離職率や定着率の改善が適しており、ダイバーシティに対する理解度の高さを示したければ男女の給与差の改善が適しています。
人的資本経営におけるKPIの一例をご紹介します。
人材育成
- 従業員1人あたりの研修時間
- 従業員1人あたりの研修費用
- スキル向上プログラムの数
- スキル向上プログラムの数
従業員エンゲージメント
- 自社に対する総合的な満足度
- 継続勤務意向
流動性
- 離職率や定着率
- 新規雇用者の総数
- 従業員1人あたりの採用、離職コスト
ダイバーシティ
- 正社員と非正規社員の給与の差
- 男女別の育児休暇取得率
健康・安全
- 労働災害の発生件数や種類
- 医療やヘルスケアの福利厚生の利用率
- 正社員と非正規社員の給与の差
- 男女別の育児休暇取得率
健康・安全
- 労働災害の発生件数や種類
- 医療やヘルスケアの福利厚生の利用率
これらはあくまで一例ですが、自社のビジョンも考慮して独自の目標を設定していきましょう。
手順3.施策を実行し効果検証する
戦略を実行に移した後は、継続的なモニタリングや定期的な効果検証の実施が必要です。KPIが研修の受講率や育児休暇取得率など定量的な指標であれば、人事関連のシステムやツールを用いて計測できます。
しかし、人的資本経営では従業員の働きやすさや企業への満足度など、数値での判断が難しい指標が設定される場合もあります。数値化しにくいKPIの達成度を判断するには「エンゲージメントサーベイ」の実施が効果的です。
企業と従業員の心理的なつながりを可視化する際に役立つ調査の一つで、従業員エンゲージメントの測定が可能です。「上司や同僚は自分の意見を尊重しているか」「職場で何を期待されているかわかるか」などのアンケートを社内で実施します。
※参考:「エンゲージメントサーベイとは? 実施の目的と効果・進め方を紹介」
まとめ:いまこそ問われる人的資本経営と戦略人事
人的資本経営では、従業員を資本と位置付ける経営のあり方です。人材を資産と位置付ければ消費して終わりです。しかし、資本と考えれば従業員の素質や能力を向上させる取り組みを行うことで、生産性の上昇やイノベーションにつながり、企業に大きな利益をもたらします。まずはこの考え方を経営層から従業員まで、しっかりと浸透させることが大切です。
すでに述べたとおり、人的資本経営は国際的なスタンダードとなりつつあります。日本でも有価証券報告書にその取り組みへの情報開示が義務付けられました。社是社訓に掲げるだけではなく、具体的な施策とKPIに落とし込み、取り組んでいくことが求められる時代なのです。
もちろん、目先の数値がよくなっても事業成果につながらなければ、それは「人的資本経営」とはいえません。「従業員のエンゲージメントのKPIが改善したが業績は悪化した」というケースは少なくありません。
まさに経営戦略と人事戦略の連動、すなわち「戦略人事」が問われているといえるでしょう