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中上川彦次郎、実業人への華麗なる転身

中上川彦次郎、実業人への華麗なる転身

(2012年3月 9日更新)

 
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プロ経営者の元祖として繰り返した華麗な転身。大財閥再生をなしとげた中上川彦次郎の転身力・転進力がある中上川彦次郎の決断の背景に迫る。

 

*  *  *

 

経営者としての人生を選ぶということ、その決断の重みはどのようなものだろう。自分に組織を率いる才能はあるのか、従業員たちは協力的であろうか。さまざまな不安を抱えながらも自分なりに全うするしかない。

明治中期、日本の資本主義社会が産声を上げる頃、産業界を牽引するはずの巨大財閥でさえ、経営者の不在に苦しみ、もがいていた。そこに、福沢諭吉の甥としてその近代精神を学び、留学経験を持ち、才覚にあふれた男が人生を賭けて改革に乗り出した。三井銀行専務理事となった中上川彦次郎である。教員、官僚を経験後、新聞経営、鉄道経営とより大きな組織へと転身をくり返し、最後は一大財閥を変革した。大きな自負を持って、与えられたチャンスに身を託し、困難な経営者の道を選択した中上川の決断の背景にはどんな信念と思いがあったのだろうか。

 

福沢諭吉の申し子

歴史に「もしも?」は禁物だが、中上川彦次郎の人生には、もし福沢諭吉の甥に生まれなかったならば、もし井上馨と会っていなかったならば、といった「もしも?」をつい考えたくなる。運命的要素と自らの選択がせめぎ合うような、中上川の人生は四十七年と短いがたいへんドラマチックである。

 

三井の近代化という中上川の業績は、三井グループにおける貢献にとどまらず、日本の産業化および資本主義の発展において、欠かすことのできない役割を果たした。

 

中上川は安政元(一八五四)年、大分中津藩士中上川才蔵と婉夫婦の長男として生まれた。婉の四歳違いの弟が福沢諭吉である。そうした縁から、中上川は十五歳のときに上京、慶應義塾に入り、芝にあった福沢邸に身を寄せながら、語学をはじめ、西洋事情に関する知識をみっちりと仕込まれた。わずか二年で卒塾すると、中上川は故郷中津で新設された中津市学校の教員として赴任した。これは福沢の指示によるものだった。 

 

やがて、父の死によって家督を相続した中上川はふたたび上京、慶應義塾の教師になる。ところが、半年あまりで今度は宇和島(愛媛県)の洋学校校長兼英語教師に赴任。一年でその任を終えると、また慶應で教鞭を執り、同時に福沢の求めによって翻訳等、さかんな文筆活動を行なった。福沢の肉親でもあり、かつ優秀であった中上川は、時に福沢の分身であり、片腕であり、そしてまた門下の人材の切り札として役どころが多く、多忙きわまる仕事をしていたのである。昼は教壇に立ち、夜は福沢の指示で、地図の教科書を書き、翻訳に精を出す。ただ、そうした活動に充実を感じつつも、読むことから得る知識にあきたらず、留学を志したのは自然な流れだったのかもしれない。

 

中上川は福沢にたびたび留学の希望を申し出たが、許可はなかなかおりなかった。福沢にとってもよほど手元に置いておきたい人物に成長したのであろう。しかし、留学をさせないのは中上川の将来を考えると得策ではないと判断したのか、福沢は留学を認め中上川のために骨を折った。

 

こうして中上川は、明治七(一八七四)年、二十一歳にしてイギリス留学を果たした。ロンドンでの生活は三年に及んだ。

 

官僚からビジネスマンへ――きらめく才覚の発揮

ロンドンでの中上川は他の留学生とは違った生活を送っていた。ロンドン大学経済学部教授レオン・レビーといった一流の学者の講義に当初は顔を出したが、「レビーの経済学もいいかげんなものだ」と人に語ったほどで、修学に励むよりはイギリス社会の実態、とくに産業について見聞を広めるのに多くの時を費やした。

 

中上川は日記にこう書いている。

「英人はいったいに怜悧ならず、鈍にして頑ななり。自由思想家なく古風執着し、宗教に迷信し、島人の性を具えて国の繁昌には不釣合なるがごとし」

日本では依然として西洋崇拝の風潮であった。しかし中上川は、実際の大英帝国とイギリス人を目の当たりにして、真の近代化とは何かを、自分の目で見、評価しようとしたのである。

 

留学も後半になると、日記にこんな気概を吐露している。

「予が今日までの思込にては、生涯政事家となる心得なりし。しかるに……政事家(政治家にあらず)の生涯ほど進退浮沈のはなはだしきものはなし。三日の天下、百日の皇帝、いわゆる水草の生涯なるものなり。臨機応変の才に富む人のほかは、決してこの不安心なる生涯を企つべからず」

 

中上川のいう政事とはおそらく人の上に立つ仕事をいうのではないだろうか。能力に対する自負と、強い自我が表れているのがわかる。

 

中上川の帰朝は、明治十(一八七七)年の暮れである。西南戦争はすでに終わり、日本はいよいよ近代化路線に専心できる時機にあった。以後、政事家たるべく中上川の働きどころはめまぐるしく変わっていく。

 

福沢は中上川を慶應義塾の出版局発行の新聞『民間雑誌』の仕事に据えようとしたが、折しも起こった参議大久保利通暗殺事件の報道姿勢を糾弾され、廃刊に追い込まれてしまった。身上が定まらなくなった中上川を拾ったのは工部卿井上馨であった。井上はかつて経済調査のため外遊していた時期があり、ロンドンで青年中上川と交流を持ったことがあったのである。井上は中上川の才能を非常に高く買っていたのだろう。いきなり秘書に登用する。自らが工部省から外務省に転じるとなると、中上川も同時に異動させ、そこでも当初から少書記官に、二カ月後には公信局長兼条約改正局副長に任命した。二十五歳の青年に対して破格の抜擢であることは言うまでもない。

 

ところが、政治の浮沈は早くも中上川の人生を変えた。明治十四(一八八一)年の政変は参議の大隈重信を失脚させた政変として知られるが、そのあおりを受けて大隈と福沢の親交から、官に在籍していた多くの福沢門下もまた追放の憂き目を見たのである。中上川もその一人として官を辞した。

 

官途を閉ざされた中上川だが、すぐに福沢のはじめた新聞事業『時事新報』の社長として活動をはじめた。実業人としての第一歩である。

 

中上川はマネジメントに何の経験も持たない。しかし、優れた手腕を発揮、『時事新報』の部数を飛躍的に伸ばした。論説主幹であった福沢は、この新聞に、当時さかんに「実業奨励論」を展開していた。そのすぐ傍らで中上川は、実業の見本を示すかのように巧みな経営をしていたのである。中上川の革新的な資質は、今では当たり前のことでも、数多く中上川の発案によるものがあることからもわかる。たとえば、当時まで内勤が一般的であった新聞記者が外で取材をして、自らの見聞のもと、記事を書くようになったのは中上川の指導による。また、読者の投書欄も中上川の企画、新聞広告も中上川が『時事新報』においてはじめたものである。

 

中上川は、編集を指揮し、会計を管理し、社説を書き、記者の記事を校閲、印刷業務を滞りなく進めた。プロ経営者としての能力をこの時代から充分に発揮していたのである。

 


 

渡邊祐介 わたなべ ゆうすけ

PHP研究所 松下理念研究部長。専門分野は、松下幸之助研究・日本経営史。松下幸之助を含む日本の名経営者・実業家の経営哲学の研究。また、経営学の諸理論とくに組織論・マネジメント論と松下経営哲学の関連性について興味を持ち、考察を深めている。

  


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