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大原孫三郎の決断~鬼気迫る社会福祉事業への真意

2019年9月 7日更新

大原孫三郎の決断~鬼気迫る社会福祉事業への真意

地方の名望家・実業家として紡績・銀行・電力といった事業を育てつつ、全国に例を見ない社会福祉事業を推進した大原孫三郎。鬼気迫る社会事業への真意とは? 回心がもたらした大転換の真相に迫る。

総理大臣の年俸が一万円の時代、故郷をはなれ東京に遊学してきた青年は、悪友にそそのかされ、放蕩をくり返し、高利貸しから一万五千円の借財を背負う。その借財処理のために奔走してくれていた義兄を心労から死へ追いやった罪の意識、また傷心を抱いて戻った故郷で出会ったクリスチャン福祉事業家の石井十次との邂逅が、青年に一大回心をもたらした。

地方の名望家・実業家として紡績・銀行・電力といった事業を育てつつ、孤児院援助から学術振興、地域医療の充実、美術館設立等に至るまで全国に例を見ない社会福祉事業を推進した大原孫三郎の決断の背景には、どのような思想が貫かれていたのであろうか。

膨大な福祉事業の推進

大原孫三郎は企業の公器性をいち早く認識し、慈善事業、社会事業、メセナを実践した。特筆すべきはそうした事業を、だれに言われたわけでもなく、政治的に利用されたわけでもなく、真に一個の経営者的決断のもとに実行したことである。

主な事業を挙げてみる。

慈善事業

◆岡山孤児院への援助
クリスチャン石井十次が興した孤児院を支援。石井の死後、自ら院長にもなる。全国一の規模を誇る孤児院となった。

社会教育事業

◆倉敷日曜講演の開催
人びとの宗教・道徳心の培養、向上のため、月に一回名士を招いて講演会を催した。大隈重信や新渡戸稲造も参加したことがある。

◆大原農業研究所の創設
農民の福祉向上を目的として、農作業の改良をめざすと同時に農学に関するさまざまな課題を科学的に研究するために創設した。

◆大原社会問題研究所の設立
社会問題・労働問題の調査研究、外国文献の翻訳、関係図書・資料の収集と公開などを目的として設立。所長には高野岩三郎博士が就任した。櫛田民蔵、権田保之助、森戸辰男、大内兵衛、久留間鮫造、宇野弘蔵、笠信太郎など、新進気鋭の研究者が結集して、労働問題研究や社会調査など未開拓の分野で数多くの先駆的業績を上げた。

◆倉敷労働科学研究所の創設
大原社会問題研究所から労働問題研究に特化し、倉紡万寿工場内に分離した研究所。大原は、理論に走る学者たちに対して、労働者の状態を現場で把握し、科学的に改善されることを希望していた。

社会資本の整備

◆倉敷中央病院の開院
治療本位、明朗にして平等公平、東洋一の理想的な病院を方針として設計、開院した。

◆大原美術館の創設
大原の支援により洋行し、修業していた洋画家の児島虎次郎に西欧絵画の名品を収集させた。

◆日本民藝館の設立支援
柳宗悦の民藝運動に共鳴し、自らも全国の民藝品を収集、設立を支援した。

このほかにも倉敷町の電話開設に私財を投じたり、倉敷図書館の開設に寄与したり、大原家所有の庭園新溪園を市民公園として寄付したりと、営利事業以外に大原が行なった活動の多さには驚くばかりである。大原をして、こうした社会福祉事業に向かわせたエネルギーの源泉はどこから生じたのであろうか。まずその生いたちからたどらなければならない。

恵まれた生いたちと東京での失敗

明治十三(一八八〇)年、大原は岡山県倉敷に倉敷紡績を創業した大原孝四郎の三男として生を享けた。大原家は元禄時代から繰綿商として家産を蓄え、のち米穀商も兼ねた。祖父壮平の代に幕末の混乱による物価騰貴から土地を手放す農民がふえ、機を見るに敏な壮平は一手に買い占め、倉敷一の大地主となった。土地の所有は県下三九町村にまたがり、有する田畑は八〇〇町(二四〇万坪)に及んだというから、いかに恵まれていたかが推察できる。

大原の父孝四郎は養子であったが、才覚に優れ、明治二十(一八八七)年、近代産業の勃興に乗って、綿の集散地であった倉敷に綿糸紡績工場設立の機運が高まり、孝四郎が資本を提供し、初代頭取(商法施行により明治二十六〔一八九三〕年から社長)に就任していたのであった。

何不自由なく育った大原が、初めて世間の風当たりを知ったのは、もと岡山藩の藩校閑谷黌の予科に入った時である。大地主の子であることから自然に特別扱いを受けていた大原は、ある夜、それをよからず思う同級生たちから手荒い制裁を受け、夜具に押し込められるという奇禍に遭った。圧死するところを、歯を食いしばって耐えた。この事件はすでに田舎に倦怠を感じていた大原に決定的な決別を促し、東京への遊学の道を選ばせた。

明治三十(一八九七)年、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学したが、実家の資産をもとに悠々と暮らす身には、東京はやはり危険な地であった。大原の金を目当てに悪友が群がり、花街へ繰り出させる。大原は元来正義感が強く、上京時に知った足尾鉱毒事件に義憤を感じ、現地調査をするほどの行動力も持ち合わせていた。しかし、若いエネルギーは遊興に回され、結果的には気がつけば一万五千円を数える借財を高利貸しから背負っていた。現在の金銭価値でいえば、一万倍の一億五千万円に相当する額である。

いかに"資金"に恵まれていたといっても、この額となると首が回らない。大原は帰郷し、父孝四郎の逆鱗に触れる。高利貸しも大原を追って倉敷に乗り込んできて孝四郎に返済を迫った。このときの孝四郎の対応は見事で、大原家を信用して未成年の息子にかくも大金を用立てたと高利貸しを丁重にもてなし、子細を調べた末に返済すると約束した。そして、その実務に大原の義兄原邦三郎を上京させた。原は優れた国際派ビジネスマンで、中国で紡績業を展開しようとその可能性を探っていた。しかし、孝四郎に頼まれ、義弟大原の債務処理に忙殺されることとなった。

このとき、大原にとっても痛恨の事態となったのは、この義兄が東京で高利貸しとの交渉中に脳溢血を起こして急死してしまったことである。自分の自堕落な行ないが尊敬する義兄の命を奪ってしまった事実は、傷心の大原に追い討ちをかける衝撃となった。この苦い経験が大原の人生の転機となったのである。

大原に影響を与えた人物

ここで大原に決定的な影響を与えた人物がいる。石井十次という。医学生であったが孤児の救済に自分の使命を感じ、医学の道を捨てて岡山に孤児院を設立したヒューマニストであった。孤児救済の募金を訴える石井の演説に魅了された大原は、自ら石井を訪ね、協力を申し出る。己の貧困を顧みずキリスト教の博愛精神から社会奉仕活動に邁進する石井の姿を、大原はどのような思いで見つめたのであろうか。

孤児院の支援という活動に、経営活動よりも早く関与したことに、大原の社会福祉活動が経営に付随して創出されたものではないことが窺える。

また、父孝四郎も大原の社会福祉事業を応援した。金銭的失敗をしてもなお大原は父孝四郎から財を融通することができたのであろう。

これほどまで"持てる者"に生まれた境遇を大原はどのように捉え直したか。そのことは大原自身の大きな課題であったろう。この点、同じように豊かな境遇に生まれ、地方から上京した例として、持てる身分に矛盾を感じ、思想的に共産主義に走るパターンは太宰治をはじめ作家・文学者によくある。大原の場合、幸か不幸かそうした思想的葛藤に陥ることはなかった。陥る前に、問題を起こしたということになろうか。

大原が再出発を託したといえる福祉事業に対するモチベーションは、述べてきた義兄の死と石井との邂逅のほか、次のような要因が挙げられよう。

二宮尊徳

倉敷に戻り、自責の日々を過ごしていた大原に、友人が二宮尊徳の『報徳記』『二宮翁夜話』を送ってきた。むさぼるように読んだという。『二宮翁夜話』にある、「富家の子弟は、譬ば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆眼下なり、是に依て分外の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終に滅亡す。天下の富者は皆然り。ここに長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只我道推譲の教あるのみ。富家の子弟、此推譲の道を踏まざれば、千百万の金ありといへども、馬糞茸と何ぞ異ならん」という一節をまさにわが身のことと受けとめたに違いない。

「余がこの財産を与へられたのは、余の為にあらず、世界の為である。余に与へられしにあらず、世界に与へられたのである。余はその世界に与へられた金を以て、神の御心に依り働く者である」

(明治三十四〔一九〇一〕年三月十五日の日記)

ここにはキリストに殉じる覚悟とともに、尊徳に対して回答するかのような気構えが見られる。

父・孝四郎と儒教

大原の父孝四郎は、高利貸しにさえ礼節を尽くす寛仁な人柄であったが、その徳性は儒教によって養われたものであった。孝四郎は倉敷紡績を立ち上げる等、実業家の素質を多分に持った人物であったが、実家は儒学者だったのである。父の思想的系統を大原も学んでいたことは想像に難くない。

労働理想主義への邁進

大原の社会福祉事業は生涯を通じて、間断なく続いた。その財源はもっぱら地主としての貸地料が充てられていたというが、無論それだけではすまなかったようである。大原はまた利益を得る実業の面でも、積極的であった。当時の紡績事業の成長は、量的拡大によってスケール・メリットを創出する戦略が適当と見られたが、大原は新工場の建設と他社の買収をいち早く積極的に進め、功を奏した。とくに、倉敷紡績と規模的に大差がなかった吉備紡績の買収は役員の反対を押し切って成功を収めたもので、大原の事業家的才能を示すものであった。

また社内の福祉改善も明治三十九(一九〇六)年、父を継いで社長に就任した直後から、積極的に取りかかった。工員の住居改善のため、分散式家族的宿舎を建設、宿舎は診療所、託児所が設置された斬新なものであった。

大原は、増益があっても、株主への増配や役員賞与に回さず、逆にそれらを減らして社会事業や社内福祉に資金投入した。従業員の待遇を優先する方針は、当然社内外からも反発があった。そのたびに大原は「わしの眼は十年先が見える。十年経てば世人もわしのやった意味がわかる」と目先の価値観、自分本位の価値観に捉われないようにと周囲を説得した。

また彼独自の企業観として、「企業とは資本と労働の協同の作業場」であると主張していた。資本家と労働者に優劣はない、と考えたのである。大正六(一九一七)年の工場長会議の席上、大原は、「従業員を生産の道具として使役することは間違いである。働きにくる人も、経営を行なう資本家も、双方共に偏らない利益を以てすれば、労使協調は可能なのではないか」と表明している。こうした労働理想主義は他に例を見ないものであった。

狂的で複雑な企業家精神

さて、見てきたような大原の社会福祉事業観を現代の経営者はどのように捉えるべきなのであろうか。CSR(企業の社会的責任)や企業倫理が問われているなか、一つ見習うべきは、利益第一主義に陥らないためにとか、不祥事を起こさないためにといったネガティブな動機から企業観を構築するのではなく、青春の挫折をまさに企業家らしい企業家精神(アントレプレナーシップ)に昇華して果敢に実行したところであろう。大原にとって経営活動が主で、社会福祉事業が従という認識はなかったのではないか。大原社会問題研究所の運営一つをとっても二十一年間で提供し続けた金額は一八五万円、現在の一八五億円に相当する。それほどの額は例を見ない。その継続性もまた評価されるべきであろう。

ただ、こうした一連の社会福祉事業への取り組みを、青年時の猛省と宗教的信仰心からと解説してきたが、それだけで説明し切ってよいものであろうか。企業家の本質と人間性をもう少し慎重に検討しなくてはいけないのではないかと思われる。

企業家は経済的合理性に従って行動するものであり、大原社会問題研究所や労働科学研究所はそれ自体、経営問題の合理的解決をめざした壮大な投資だった。つまり"超合理的思考"から行動したともいえる。

また超合理的という表現が不適切ならば、常識人を超えた企業家の狂的な部分とでもいおうか。経営の合理化については、経費節約対策研究会を設けたり、営業の近代化のため商標の整理、製品の標準化まで緻密に推進したりした一方、美術館のための絵の買い付けには、ヨーロッパに滞在していた児島虎次郎に、「エヲカッテヨシ カネオクル」との電報一本で任せた。緻密かつ合理化を求めるセンスとアバウトな散財に近いセンスの同居、このバランス感覚はどう理解すればよいのだろう。大原自身でなければ説明できないのではないだろうか。

大原の人間性については、跡を継いだ息子の總一郎でさえ、「非常にわかりがたい性格だった。その分かりにくさは、茫洋として捉えがたいという類のものではなかった。尖鋭な矛盾を蔵しながら、その葛藤が外部に向かっていろいろな組み合わせや強さで発散したから、人によって評価はまちまちだった」と語っている。家庭人としての大原は晩年まで、家を空けがちで花柳の席にも連なった。青年期の東京での苦い経験をきっかけに、人間的成長が図られたというのは誤りではないが、聖人になりきったということでもなかった。

また、純粋な目的達成のために主義主張を超えて周囲を巻き込んでいった。大原社会問題研究所設立にあたっては、所長職を社会主義者の河上肇に打診するため訪問を重ねた。資本家の来訪に河上のほうが戸惑って、「たびたびここへお出でになるのは、あなたのためになりませんよ」と言っても、大原は笑って意に介することはなかったという。

大原は、営利事業と社会福祉事業の経営を「靴と下駄を一緒に履く」と述べていたが、「それは失敗だった」と述懐している。何を以てそう言ったのかはよくわかっていない。また、自分の生涯は「反抗の生涯だった」とも述べたという。これも何に対しての反抗なのか、わかっていない。大原の人間性は一見わかりやすそうでいて、実は深く複雑なようである。

真の企業家精神とは何であろう。それはたんに合理性の追求に卓越しているから発揮されるものではない。むしろ利害や理屈では割り切れないそれぞれの人間くさい部分、情動、情念の影響が実は大きいのではないだろうか。

そのように考えれば、大原の執念という以上に突き抜けた社会福祉事業観は考えようによれば、現在、時代の趨勢として論じられているCSRや企業倫理に対する大きなアンチテーゼとも見られるのではないだろうか。つまり、社会が変わった、システムが変わったという理屈ではなく、より根幹の人間的な精神から、あるいは善を追求したい良心から、企業を社会に生かす発想を現代の企業家が心の底に有しているのかどうか。経営者に今一度の自己観照を求めたいものである。


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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