人を育てる~松下幸之助「人を育てる心得」
2015年12月 4日更新
指導者は真の人間教育をめざさなくてはならない
吉田松陰は二十三歳の時、海外へ密航をくわだてて失敗し、捕えられて入獄の身となった。この時牢内には十一人の囚人がいたが、松陰はすぐにみなと親しくなるとともに、そこをお互いの教育の場としたのである。すなわち、松陰自身はみずからの得意とする、いわゆる四書五経の講義を行なうとともに、俳諧にくわしい人には俳諧を教えさせ、書道に秀でた人には書道を教えさせ、自分もそれを学ぶというようにした。それによって、今まで絶望的な雰囲気だった獄内が、みなそれぞれに自信と勇気をとり戻し、活気にあふれてきた。それが藩当局のみとめるところともなって、ついに松陰を含めて全員が解放されるにいたったという。
牢に入れられてなお志を失わないということだけでも、実際にはなかなかできないことであろう。その上に松陰は同囚の人びとの教育までもした。しかもそれはただの教育ではなく、真の人間教育だったのだと思う。つまり、みずからも講義し、またそれぞれの人に自分の得意とするところを教授させ、互いに教えあい、学びあう中で、その人びとが獄中生活の中で見失っていた、人間としての価値、人間の尊厳といったものにめざめさせたのだと思う。
松陰が有名な松下村塾をひらいたのは、この出獄ののちのことであるが、そこから明治維新の偉大な志士たちが輩出したのは、こうしてみると決して偶然ではないといえよう。
松下村塾には、高杉晋作などのような名門、上士の子弟もいるが、同時に伊藤博文とか山県有朋のような足軽の子もいる。封建時代にあっては、ふつうであればまず重く用いられることのない人びとである。それがのちに国家の柱石となり、位人臣をきわめるというほどにまでなったのは、もちろん本人がすぐれていたからにはちがいないが、やはり松陰の人間教育によって、いわば魂の底からゆり動かされ、その秘められた素質が引き出されたからではないかと思う。
松陰は入獄の時、"かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂"という歌を詠んでいる。そうした国の将来を憂うるひたむきな思いが、囚人であろうと軽輩であろうと、わけへだてなく、人間としての価値にめざめさせずにはおかなかったのであろう。指導者が人を育てるにあたって、知識よりも何よりも、まずそうした人間の尊厳を教えることが大切なのだと思う。
【出典】PHPビジネス新書『指導者の条件』(