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吉田秀雄~業界地位を引き上げた広告の鬼の大局的判断

2014年11月 1日更新

吉田秀雄~業界地位を引き上げた広告の鬼の大局的判断

一人の経営者のある判断が、業界の悪しき慣例を打ち破るという事件がかつてあった。昭和29(1954)年5月、電通第四代社長吉田秀雄は、最大手の取引先である化粧品会社中山太陽堂からの広告料金支払い期限延長依頼を決然と拒否した。

事件と称されたこの決断の真意は何か。 「押し売りと広告屋はお断り」などと蔑まれていた広告代理業を、近代産業の一角に押し上げるため、「広告の鬼」の異名をとる吉田があえて下した決断の背景を探る。

世界の電通を育てた立役者

今や世界の広告代理業のリーダー的地位を占める電通。その発展は、戦後の高度成長期に重なるが、輝かしい成長を牽引した最大の功労者こそ吉田秀雄である。

吉田の功績は電通一社における貢献にとどまるものではない。その業績中最たるものは、現代広告システムの基礎をつくり、「広め屋」などと呼ばれ、低い地位にあった広告代理業を近代産業の一角まで飛躍的に成長させたことである。

吉田の人生は紆余曲折に富んでいる。11歳で父に死別し、新聞配達で生計を立てざるを得ない境遇になる。ところが、学業に優れていたことから、見込まれて篤志家の養子に入り、以降生活苦から解放されて、東京帝国大学経済学部まで進学できた。ただし、皮肉といおうか、それだけ養家の世話になっても、彼にとっての心の故郷は、生涯生活の苦しみを分け合った生母であったという。

昭和2(1927)年、大学を卒業、就職をめざすが、当時は世界不況蔓延の兆しで就職戦線は最悪、東大卒の肩書きはかえって不利であった。もともと吉田は新聞記者志望だったが、ことごとく失敗してはかなくその夢を断たれた。以降の有力会社の就職には連戦連敗で、結局社名さえ認知していなかった、電通の前身、日本電報通信社に何とかすべり込んだ。吉田にとって広告業との出会いは、選択の余地のない望まざる結果によるもので、運命的というしかない。

しかも、当時の広告代理業の地位は現在の感覚とはほど遠いものであった。吉田は社内の雰囲気に絶望した当時の心境を次のように回顧している。

「広告取引というものが、本当のビジネスになっていない。実業じゃないのだ。ゆすり、たかり、はったり、泣き落としだ。わずかにそれを会社という企業形態でやっているだけで、まともな人間や地道な者にはやれなかった仕事なんだ。(中略)一日も早くこんな商売から抜け出さねば、これは大へんなことになると、実はしょっちゅう考えておった」(「電通入社二十五周年回顧座談会」)

吉田が最初に就いた仕事は、地方局の営業である。広告料金は不定、広告主の立場が異常に強く手数料は叩かれ放題、広告業者のすることは「紙型」を媒体に運ぶだけで、つらい現場であった。

ただ、こうした問題が山積した仕事場でも、吉田は懸命に経験を積み、業界の宿弊是正のために同志と語らって勉強会を開くなど、地道な努力を怠らなかった。

業界を代表する吉田の活躍

その甲斐あってか、誠実に仕事をこなす吉田はとんとん拍子に出世していく。昭和17(1942)年6月に取締役、同年12月には常務取締役に就任した。まだ39歳である。 戦時経済統制の荒波が広告業界にも押し寄せ、同業者の再編や公正な広告料金算定など業界の諸問題を包括的に解決せざるを得なくなった。現場経験の豊富さを買われた吉田は業界を代表して改革に取り組んだ。その頃の吉田のリーダーシップは、身分こそ一社の常務でありながら、すでに業界の顔としてあらゆる面に及んでいたのである。

終戦を経た昭和22(1947)年、44歳の若さで第四代社長に就いた吉田は、民間ラジオ放送開始の立役者となって、財界人として重きをなした。その後の電通の発展を支え、電通の社風ともいえる「鬼十則」を定めたのも吉田である。電通の業容も吉田の活動に比例して拡大成長していったことは言うまでもない。吉田の努力はそのまま広告代理業の確立と地位の向上に大きく貢献していたのである。

そんな中、吉田と電通は中山太陽堂事件に遭遇する。この事件に対する吉田の決断こそが、大きな転機を業界全体に与えたのである。

広告代理業に回されるツケ

事は、昭和29(1954)年5月末、大阪に本社を置く化粧品製造販売の老舗中山太陽堂が電通大阪支社に対して突然、「資金の手詰まりとその打開策のために、全債権の六カ月の棚上げと、その後の一カ年による分割払いを要請したい」と申し出たことに端を発する。

当時、電通の太陽堂に対する債権額は、受取手形で約四千万円、実施済み広告料で手形化がまだのものが同じく四千万円。合計八千万円にのぼる多大なものであった。

吉田は太陽堂側の真意を質した。すると、太陽堂社長の中山太一は、「今期の経営は黒字であるから見通しは明るい。今回のことは自分も知らなかった過去の不良資産の発見で甚だ遺憾である。とはいえ、工場関係の資産は無傷だし、銀行からの担保提供の要求に対しても断って、債権者全体の利益のために保全に努めているのでぜひ棚上げに協力してほしい」という。

たしかに筋は通っている。しかし、そのあおりを、なぜ電通が食わなければならないのか。その理由はどこにもない。

広告代理業システムの近代化がここまで進んでも、広告主の態度は戦前と変わらないのか。吉田は血が沸騰したのであろう。

「虫のよい話だ! 絶対に応じるな」と命令した。

かくして、6月15日。太陽堂は手形の不渡りが出て倒産となった。

近代産業への脱皮のための荒療治

倒産の善後策を協議するために太陽堂の債権者会議が招集された。ところがその大事な会議開催においても、もっとも大口の債権者である電通にその通知があったのは前日の午後10時のことだった。東京にいる吉田が対応できる時間ではない。常識に欠けた行為である。 

やむなく代理人を出席させたが、その会議で明白になった事実は、吉田をさらに激怒させた。

無傷であると主張していた工場資産は、すでに税金滞納のために差し押さえ処分になっていた。つまり太陽堂は、銀行が見放すほどの悪い状況であったにもかかわらず、財務状況を公開せずに広告代理業を犠牲にして、経営を乗り切ろうという勝手な策を採っていたのである。

情報の蚊帳の外に置かれ、電通に対応策などどこにも残されていなかった。

そこで、債権確保の最終手段として、吉田は大阪地方裁判所に太陽堂の第三者破産の手続きを強行し、太陽堂は会社更生法の適用を申請した。吉田は、広告主に対して、旧来のなれあいから決別する道を選んだのである。

こうした対処は当時の広告業界の理解を得られるものではなかった。広告主をここまで追い込んでよいのか、という心情を同業者でも拭い去ることができなかったのであろう。

しかし、吉田は、「これを見逃しては広告界の粛正ができぬ。わが社だけの問題ではない。広告界全体のためにあくまで戦い抜くのだ」と、自らの信念に徹して決断を曲げなかった。

戦って勝つといっても、戦利品は名誉以外ないも同然である。この決断によって電通が受けた傷は大きく、部長職以上には年末の賞与を出せなかった。電通発展史の向こう傷というべき損害かもしれない。  

さらに吉田は事件にとどめをさすように、数万部の発行を誇る電通発行の広報誌臨時版に、この一連の事件経過を大々的に報道させた。得意先ならず、全産業界に自社の正当性を訴えるのは例を見ないことである。反響は相当大きなものとなり、つまるところ、この広報によって太陽堂の一件が「事件」として記録に残ることになった。また見ようによっては、吉田の決断の徹底ぶりこそ「事件」の正体だったのかもしれない。

翌昭和30(1955)年、吉田は、社名を晴れて「株式会社電通」と変更し、新たなコミュニケーション創造企業への転進を宣言した。前年の太陽堂事件の意義は、古い体質の広告代理業からの決別を果たし、新生電通を誕生させるための一里塚といったところであろうか。

人間・吉田秀雄に学ぶ経営・仕事のコツ

吉田は冷徹な経営者だったと伝えられているが、むしろ親分肌で得意先に融通を利かせるほうだった。あるとき、得意先の三共製薬が窮地に立ち、その波紋が電通に及びかけたとき、吉田は全社員にこう言ったという。

「三共さんは永い間のお得意さんである。もしひっかかって万一のことがあっても、それで電通がつぶれる事もあるまい。もちろん大きな損害と痛手は、こうむろう。しかし、考えてもみよ、人が弱目の時逃げる事こそ、常々の道義をわきまえぬ仕方だ。かりにそれで電通がつぶれたにせよ立派に世間に筋道は通る。こういう時にともに苦しんでこそ、本当の代理業である。心配するな。今危急のときにあるお得意さんにもっとも大切な資金といえば広告だ。広告をとめることこそ致命的だ。逃げてはならん。むしろ一層その手足となって協力しなければなるまい」(片柳忠男『広告の鬼・吉田秀雄』原文ママ)

苦労人のゆえか、侠気もあり、本来お得意との共存共栄を願っていたのである。こうした思いからすれば、中山太陽堂事件への対処が特別な信念によるものであり、たんなる報復措置ではなかったことがよくわかる。

その太陽堂に対しても、後に京都での会議に出席中、太陽堂社長の中山太一の訃報に接すると、吉田はただちに役員を連れて大阪の中山家を弔問に訪れている。義理人情にかたく、情に厚い人間味が窺い知れよう。

今日、吉田に学ぶことは何であろう。

それは、正しい仕事をめざす、仕事の意義をより高く昇華していくという姿勢ではないだろうか。「鬼」といわれたように仕事への情熱は並大抵ではなかった。自ら社員に示した「鬼十則」は、仕事の意義、そしてそれに取り組むために社員としての修養のあり方を示したものである。この教えはビジネスマンとして、個としての能力を存分に発揮することが、いかに個人にとっても組織にとっても重要であるかを問うている。

厳しい要求だが、その根底にはやはり人間愛が垣間見える。仕事への情熱と友愛の精神、それがビジネスマン吉田秀雄の身上であり、自身の魅力の原点もそこにあったといえよう。

昭和38(1963)年、吉田秀雄は、五十九歳で逝去する。あまりにも若いその死は、多くの人に惜しまれた。吉田自身もまだまだ為したいことがあったであろう。もっとも、それ以上に悔やまれることとして、生母より早く旅立たざるを得なかった親不孝を生母に詫びたかったかもしれない。

電通「鬼十則」

一、仕事は自ら「創る」可きで、与えられる可きでない。
二、仕事とは、先手先手と「働き掛け」ていくことで、受け身でやるものではない。
三、「大きな」仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
四、「難しい仕事」を狙え、そしてこれを成し遂げる所に進歩がある。
五、取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは。
六、周囲を「引き摺り廻せ」、引き摺るのと引き摺られるのとでは、永い間に天地のひらきが出来る。
七、「計画」を持て、長期の計画を持って居れば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
八、「自信」を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
九、頭は常に「全廻転」、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
十、「摩擦を怖れるな」、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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