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太田垣士郎の決断~試練に挑んだ黒四ダム建設

2016年10月26日更新

太田垣士郎の決断~試練に挑んだ黒四ダム建設

京阪神急行電鉄から関西電力初代社長に抜擢され、人跡未踏の北アルプスのど真ん中に現代のピラミッドともいわれる黒四ダム建設を断行した太田垣士郎。稀有な精神力に支えられたその決断の背景に迫る。

昭和二十六(一九五一)年、経済成長の息吹が聞こえつつあるにもかかわらず、関西における電力不足は深刻の度を深めていた。

京阪神急行電鉄から関西電力初代社長に抜擢された太田垣士郎は、社員の結束を呼びかけ、発電所の建設に相次いで取り組んだ。なかでも社長就任五年目にして最大の計画として断を下したのが、二十数万キロワットの発電を見込む発電所と世界有数のアーチ式ダム・黒四ダム・の建設である。

北アルプスの山腹にトンネルを掘りはじめるが、巨大な破砕帯に遭遇し工事は頓挫する。摂氏四度の湧水で危険なトンネル内に自ら視察に入った太田垣は、絶望的な状況を前に断固続行の言葉を叫んだ――。

見込まれた卓見と企業家魂

企業家は時に一世一代の決断を強いられる。一世一代の決断は、生死をも左右する大きなリスクを伴っているものだ。逆説的に言えば、リスクのない決断というものは、企業家たる者にとって決断の部類には入らない。その意味で、人跡未踏の北アルプスのど真ん中に現代のピラミッドともいわれる巨大ダム建設を決断し、しかも、竣工まで七年、とくに破砕帯による工事中断の危機的状況に屈しなかった太田垣士郎は、稀有な精神力の持ち主であったといえるだろう。

太田垣自身、この黒四ダム建設にあたってこう述べていた。

「事業をはじめる場合、十分合理的に考え、用意してかからなければならないのは当然だが、では、九分九厘まで安全だとわからなければ、それに着手してはならないかどうか。九分九厘まで安全だとわかっている仕事であれば、だれにもできることだ。どんな仕事にも危険は伴うものだ。その危険率をできるだけ縮めて、安全度の七分のところで着手するか、八分まで待つか。存在する危険をいかにして克服するかという点に、経営者としての手腕がかかっている」

(『怒らず焦らず恐れず――太田垣士郎伝』)

そもそも電力には門外漢で、鉄道会社の経営者だった太田垣が、日本の電力供給の一大エポックとなった黒四ダムに関わるようになったのは、まさしく運命的な天の配剤だったというしかない。

第二次世界大戦中、電気は国家によって統制され、日本発送電株式会社(以下、日発)という国策会社が全国の発電と送電を一元的に支配し、それを九つの配電会社が消費者に供給していた。太田垣は敗戦直後、その一つである関西配電の監査役に就任していたのである。それは、太田垣が京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄株式会社)の社長になる一カ月前の昭和二十一(一九四六)年十一月のことであった。

その後、GHQの過度経済力集中排除法の指定によって、日発は九地域に分割されることになる。その国会での審議過程で、太田垣は公述人として出席を求められ、電力業界に対する卓見を述べた。それは、電力不足で戦後復興に電源開発が待たれるなか、国家管理の発電会社、ならびに配電のみの会社では連携に支障が出る。発電から配電までを地域ごとに完全に分割し、民間の企業家に託すべきだと訴えるものであった。

昭和二十六(一九五一)年、関西電力の発足にあたって京阪神急行電鉄社長から引き抜かれ、初代社長に推薦されたのはそうした電力事業への識見と、京阪神急行時代の激しい労働闘争を終結させた手腕を見込まれたからであった。

試練に挑んだ黒四建設

関西電力社長に就任した太田垣は、就任わずか二十日目に会社の資本金の七倍、従来の水力発電所の数倍となる十二万五千キロワットの丸山発電所の建設を提案する。当時の電力不足がいかに深刻だったかが窺えよう。停電など日常茶飯事であった。

有名なエピソードがある。丸山発電所資金繰りのために太田垣は、日銀総裁一万田尚登の関西出張に合わせ、京都で建設資金の陳情をする。このとき、太田垣の部下は、一万田の出張時には停電が起きないように、備蓄の少ない石炭を使って、発電量をふやそうとした。しかし太田垣は、もってのほかとはねつけ、関西財界こぞっての歓迎の宴にも通常通りの配電を指示した。停電はその晩も五、六回に及び、一万田が、「聞きしにまさるひどさだ」と言うのを捉えて、太田垣は、「もっとひどくなります。これが夜会に不自由なほどならいいですが、工場の電力がこうなれば日本の産業は麻痺します」と訴え、資金調達の理解を取り付けたという。しかし、電力はまだまだ足らない。その後、多奈川火力発電所を開発させ、なおも太田垣は次なる巨大発電所を計画していた。

黒部川は岐阜と長野の県境鷲羽岳を水源とし、富山を流れる。その地の利が確認され、水利使用が計画されたのは大正七(一九一八)年にまで遡る。流域の年間降水量三八〇〇ミリという多雨地帯で、夏の渇水期でも冬季の積雪が水量を支えている。加えて河川勾配も全川平均四十分の一という急流、両岸の切り立った絶壁はダム建設に最適で、さらに電力消費地にも近い。電源開発には垂涎の地点だった。厳しい難工事の末、黒部川第一発電所が建設され、運転を開始したのは昭和二(一九二七)年のことであり、その後第二発電所が昭和十一(一九三六)年、第三発電所が昭和十五(一九四〇)年に建設されている。

第四発電所の構想は大正七(一九一八)年の計画時からすでに着目されていたが、上流の険しさは「人力」の範囲を超え、資材さえ運べないことから、構想三十数年を経てもだれも決断できなかった。大きな使命感から決然とその断を下したのが太田垣の前出の言葉であった。

ドーム型アーチ式のダムの高さは一八六メートルと世界屈指の規模を誇り、周囲の景観に配慮して発電所部分は地下に設計されている。この一大工事のために太田垣は技術陣から従来の日本海側の下流から攻めるのではなく、三〇〇〇メートル級の尾根が連なる北アルプスの山腹を打ち抜くトンネルを掘って資材を運搬することが可能だと聞き、建設に踏み切った。可能とはいっても、あくまで机上のことである。人跡未踏の大自然のこと、何が起こるかわからない。そのリスクを知りつつ、断固として決断したのである。

工事が始まったのは、昭和三十一(一九五六)年七月。そして、恐れていた事態が起こったのは翌三十二(一九五七)年四月二十七日のことであった。突如、地鳴りとともに掘削面が出水し崩壊した。大破砕帯に遭遇したのである。岩石や砂でトンネル内は泥沼と化した。亀裂した粘土層に土砂がまじった破砕帯は穴が開いた場所で凶暴な水流となるので、土木工事では魔の箇所といわれる。それが順調だった工事を一気に頓挫させたのだ。

報告が来るたびに太田垣は、「あきらめるな」とだけ言い続けた。「いまうしろを向いたら、立ち直れなくなる。心を鬼にしても現地の緊迫状態を前へ向けなければならん」。ひとりそう呟いていたという証言もある。

あくまで初志を貫徹

太田垣は八月二日に現地に入った。現地の作業員が驚いたのは、工事中断の深刻な状況下にもかかわらず、太田垣が笑顔で現れたことであった。そして、順々に励ましの言葉をかけていく。その一方、周囲が止めるのも聞かず、危険なトンネル内に入っていく。他社の作業員はそのさまを見て、「関電のあんたらは幸せだなあ。いつ崩れるかもわからない坑内に社長が一緒にいてくれるんだから」と言ったという。

破砕帯に面した現場は摂氏四度、毎秒五〇〇リットルずつ湧出する水に浸かり掘削どころではない。傍にいた常務取締役の芦原義重(のち関電社長、会長)はこう記している。

「現場にかけつけられた太田垣さんの顔は眼光一段と鋭く、どんなことがあっても一歩も後へ退かないという気魄と決意がありありとうかがえ、その気魄には私たちも圧倒された」

(『経済人』一九六八年一月号)

太田垣はその場で、「鉛筆一本、紙一枚を節約してでも、黒四の工事には不自由させないぞ。必要なものは何でも送るから、頑張ってくれ」と現地社員、作業員を鼓舞した。

水抜きのためにパイロット・トンネルを掘ったが崩落、マスコミも"黒四建設に暗雲"など関電の経営危機を伝える報道を流し、なかには「太田垣も終わりか」といったコメントをした財界人もいた。周囲では設計の見直しも囁かれたが、太田垣はけっして妥協しなかった。「コドモ キトク スグカエレ」「チチ シキョ」などというニセ電報を打ち、姿を消す作業員も出てきた。次善の策としてふたたびパイロット・トンネルを掘り、化学薬液とセメントで湧水を凝固させる方法が採られた。この方法も一つの賭けであった。成功を確信する技術者はだれもいなかったという。それほどの特殊作業だったが、見事功を奏した。そして、ふつうのダム建設なら一週間で掘れる八〇メートル区間を七カ月かけて、ついに破砕帯を突破し、黒四ダムは完成の糸口をつかむことができたのである。

「一時は血の小便が出たよ」

太田垣は、そう述懐しつつ、このときの決断をふりかえってこう語っている。

「苦しいところを乗り切ってこそ経営者なのだ。しかも一番苦しいときにふらついちゃだめだ。あくまで初志を貫徹するんだ。それができなければ、自分で腹を切るんだというぐらいの覚悟でいけば何事もできるんだということである。それをこんどしみじみと感じた」

(『怒らず焦らず恐れず――太田垣士郎伝』)

堅忍不抜の気性

太田垣の黒四ダム建設の決断ほど、その人間的器量が試された決断はいくらもないのではないだろうか。ただ一括りにして表現するならば人間的器量というのであろうが、そこには二つの要因があったのではないかと思われる。それはまず人一倍、堅忍不抜の人であったということ、次に人一倍情愛の人であった点である。

堅忍不抜を育んだのは幼少時の災厄である。明治三十八(一九〇五)年九月一日、兵庫県城崎尋常高等小学校高等科二年に進んでいた太田垣少年は、夏休み明けの登校途中、今でいうノートがわりの半紙を止める真鍮製の割り鋲を過って飲み込み、それが気管支に突き刺さるという奇禍に遭う。口にくわえて歩いていたところを友人に背中を叩かれた拍子にそうなってしまったという。息が苦しくもがいていたが、医者である父も手の施しようがなく、京大病院に担ぎ込まれた。しかし、それでも結果的に摘出できなかった。

以来、それまでの腕白少年が、一転病弱の身となってしまった。結局その年は百六日も欠席、翌年も九十日を数え、太田垣は血痰と発熱に苦しむ忍従の日々を送った。この割り鋲は六年後、兵庫県豊岡中学時代に奇跡的に激しい咳とともに排出された。その後の太田垣は、"ガキ士郎"といわれるほどに快活になったが、この経験は太田垣に人生の試練と開き直りの妙味を伝えるものだったといえよう。

大正九(一九二〇)年、京都帝国大学経済学部を卒業した太田垣は日本信託銀行に就職する。そして、株に手を出してみたが見事に失敗する。

到底性分に合わないと悟って転職を考えていた折り、上司に誘われたのが阪神急行電鉄(のち京阪神急行電鉄、阪急電鉄)であった。阪急・東宝グループ創始者の小林一三との出会いである。庶務課文書係に落ち着いた太田垣の机の傍らには小林の席があり、いわば直属、直接指示を受けることが多かった。小林は、車掌から切符売り、宝塚歌劇の場内課長に百貨店のフロア課長と、太田垣にたくさんの部署を経験させ、現場感覚と合理主義を磨かせた。天才肌の小林の厳しい叱責に疲れきり、潰れる部下が多かったというが、太田垣は耐え忍んだ。

サンケイ新聞社長だった水野成夫が小林との対談の際、小林が鋭く細かすぎるので後継者は育たないと世間が言っていると指摘したところ、小林は、「その噂は誤解だ。うちは多士済々、群雄雲の如しだが、なかでも図抜けているのが太田垣士郎。あれは本物だよ。ぼくより偉くなるやつだよ」(『太田垣士郎氏の追憶』)と太鼓判を押していたという。

人間力の原点――試練と愛

もう一つの要因である情愛の人といえるのは、太田垣がだれにもまして愛され、そしてまた愛を与える人であったことに尽きよう。

太田垣の父隆準は兵庫県城崎の開業医で慈愛深い人徳者だった。医業を継がせたい気持ちから太田垣には厳格なスパルタ教育を課したが、最終的に太田垣が選んだ進路については理解を示した。父子の強い絆が確認されたのは、昭和二(一九二七)年七月、隆準が脳溢血に倒れたときのことであった。

隆準親子の知己であった三上紀之の証言によると、半身不随で人事不省の重体に陥った隆準は、意識がないなか、残る片手で指を折る仕草をしていたという。それは隆準が毎朝千遍唱えていた「南無大師遍照金剛」の指折りだった。太田垣の気管支に割り鋲が入ったとき、隆準は医者ながら如何ともできず悲嘆にくれた。それが六年後、自然と飛び出したのがお大師様の日(二十一日)だったというので、以来、それまで非科学的なことや迷信など信じなかった隆準が、息子を救ってくれた御礼として一日も欠かさず感謝の声明を唱えていたのである。そんな父への太田垣の敬愛は相当なものだった。

一方、太田垣自身は父親として耐えがたい試練を経験している。京阪神急行電鉄社長に就任して二年目、戦後の激しい労働組合の攻勢に対しているさなかに、長男と長女を相次いで喪ったのである。長男の力は戦時中に学徒動員で出征したが健康を損ね床に臥していた。その長男が長期にわたる闘病もむなしく二十二歳で力尽き、またその力を献身的に看護していた長女の陽子もショックのあまり二十五歳という若さで亡くなったのであった。

太田垣はこう記している。

「人一倍子ぼんのうだったわたしが、この何ものにも換えがたい大切なものを、一度に二つまでも突然むしりとられた悲しみは深かった。彼等はふたりとも人生を知らずに、いや、測り知れない可能性に満ちたその世界にやっと一歩を踏み出したそのときに、道をふさがれ逝ってしまった。地位も名誉もどんな物質も、ここでは何の役にも立つはずがなかった。いやどんなに頑張ってみても、自分の小さな力では、この残酷な『死』をくい止められなかったという事実が、わたしにはむしろ耐えがたく、みじめに思われた。『よし、自分の余生は逝った子供たちの代わりに力の限り働くことに費やそう』と決心した」

(『中央公論』一九六一年八月号)

この痛恨事を禅にふれることによって克服した太田垣は、経営者として筋を通すことの大切さを後進にも訴えていた。「怒らず焦らず恐れず」という言葉を太田垣流経営の真骨頂として自ら唱えていたが、そうした強みは肉親との強い情愛によって支えられていたといえよう。

そしてただ強かったのではない。関西電力社長就任に際して、敵対していた京阪神急行電鉄の労働組合の役員が「行ってくれるな」と引き止めたという。それは太田垣の情味ある人間的魅力のゆえであろう。

今、理知と才覚にあふれた経営者は巷間珍しくないかもしれない。しかし、太田垣のような人に倍する精神力と、人間的徳望を併せ持つ大器量の経営者が年々減るばかりに思えるのはもの哀しい限りである。


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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