若い社員に伝えたい「叱られたら一人前」ということ~松下幸之助「人を育てる心得」
2017年9月12日更新
人はだれでも、厳しく叱られたり、注意を受けたりするということは、あまり気持ちのよいものではありません。
当然叱られるだけの理由があった場合でも、上司に呼びつけられて叱られるというようなことがあれば、その日一日中、なんとなくわだかまってすっきりしない。それがいわば人情で、叱られるより叱られないほうを好むのは、人間だれしもの思いでしょう。
それは叱るほうにしても同じです。部下を叱ったあとの、あのなんともやりきれない気持ちは、管理職の人であれば、たいてい経験していると思います。
しかし、人情としてはそうだからといって、その叱られたくない、叱りたくないという人情がからみあって、当然叱り、叱られなければならないことでも、うやむやのうちに過ごされてしまったならば、どういうことになるでしょうか。一度でもそのような考えで物事が処理されると、あとのけじめがまったくつかなくなってきます。仕事や職場に対する厳しさというものが失われ、ものの見方、考え方が甘くなり、知らず識らずのうちに人間の弱い面だけが出てきて、人も育たず成果もあがらず、極端にいえば会社がつぶれるということにも結びつきかねません。
もとより今日よくいわれるように、個人の自主性を重んじ、自発的にのびのびと仕事に取り組むことは大切です。しかしそれは、厳しく叱られることが不必要だということではないと思います。むしろお互いの自主性なり個性というものは、厳しく叱られるということがあってこそ、よりたくましく発揮され、その人の能力もいちだんと伸びるのだと思います。
私も、まだ若くて第一線で仕事をしていたころは、よく社員を叱ったものです。それも血気盛んな時分ですから、一人だけ呼んでそっと注意をするといったなまやさしいものでなく、みんなの前で机を叩き、声を大にして叱るというようなことがたびたびでした。
ところが、私からそのように目の玉がとび出るほどに叱られた社員が、それで意気消沈していたかというと、そうではありません。むしろそのことを喜び、いわば誇りとするといった姿でした。
それはどういうことかといいますと、創業当初はともかく、会社がしだいに大きくなり、社員の数も増えてきますと、私のほうも社員一人ひとりにいちいち注意を与え、叱るということができなくなりました。そうなると、どうしても限られた、責任ある立場にいる人を叱るということになりますから、社員のあいだにはいつとはなしに「大将に叱られたら一人前や」というような雰囲気が生まれてきたのです。ですから、叱られると本人も喜び、またまわりの者も「よかったなあ、おまえもやっと一人前に叱られるようになった」ということで、ともに喜び、励ましあうといった姿が見られるようになったというわけです。そして、そういうことが、社員の成長なり会社の発展の一つの大きな原動力になっていたように思います。
人間というものは、黙ってほうっておかれたのでは、慣れによる多少の上達はあっても、まあこんなことでいいだろうと自分を甘やかしてしまいがちです。そこからは進歩、発展は生まれず、その人のためにも、ひいては会社や社会のためにもなりません。やはり叱られるべきときには厳しく叱られ、それを素直に受け入れて謙虚に反省するとともに、そこで大いに奮起し、みずから勉励していってこそ成長し、実力が養われるのです。
そのことを、若い人も責任者も肝に銘じて仕事にあたってほしいと思いますし、特に若い人たちは、そこからさらに進んで、叱ってもらうことをみずから求める心境、態度を培うことが大切ではないかと思うのです。