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逆境を活かす~八天堂代表・森光孝雅氏が語る(1)

2023年6月 6日更新

逆境を活かす~八天堂代表・森光孝雅氏が語る(1)

2023年4月19日に開催された月刊誌『PHP』創刊900号記念イベントでの森光孝雅氏(株式会社八天堂 代表取締役)特別講演を3回に分けてご紹介します。

2020年から月刊誌『PHP』を地元・広島県三原市の学校に贈呈する活動を続け、2021年2月号「私の信条」、2023年5月号「ヒューマン・ドキュメント」にも登場された森光氏。今回は、26歳で1号店を始めてから10年で13店舗を展開するようになり、その後、大きなピンチを迎えるまでのお話です。

株式会社八天堂
1933年創業。3代目森光孝雅氏が1991年「たかちゃんのぱん屋」を開店。順調に売上を伸ばし十数店舗まで拡大。債務超過に陥り倒産の危機を迎えるも、「くりーむパン」への一点集中でV字回復を果たした。国内だけでなく海外まで店舗を展開。2013年広島空港の目の前に新工場設立、2016年体験型食のテーマパーク「八天堂ビレッジ」をオープン。カフェ店舗や物販店を展開、事業所内保育園を開設し、地域活性化のモデルになるべく取り組んでいる。

皆さん、こんにちは。ただいまご紹介に預かりました八天堂の森光と申します。広島から参りました。弊社は今年で創業90周年になります。
これまで私は月刊誌『PHP』をずっと購読していまして、ここに掲載されている多くの方の体験や言葉にふれて、大きな挫折を乗り越えて今日までやってきたわけです。ですから今日は、感謝の気持ちをもってお話しさせていただければと思っております。

「事を成すは逆境にあり、事を破るは順境にあり」

私が大切にしてきた言葉の一つが「事を成すは逆境にあり、事を破るは順境にあり」です。
PHP研究所を創設された松下幸之助さんは、早くに家族を亡くされて、逆境のなかの逆境からのスタートだったわけですよね。厳しい環境のもとで生きてこられたからこそ、人に対して、社員に対して、思いやりや優しさをもって経営に臨まれていた。

経営幹部の方々には「社員は幸せか」と、いつも声をかけておられたとお聞きしました。
「社員は幸せか」――このフレーズに、何のために経営をしているのか、何のために生きていくのかというのが集約されていると思います。
逆境をいかに活かしていくか。これが人生であり、成功された経営者の共通点じゃないかなと感じております。

しかし、この「逆境を活かす」というのは、なかなか難しいことで、私も、いつの間にか無いものを探すという状態になっていました。要は、逆境を不満に思う。愚痴や不平を、いつの間にか言ってしまう。
このような状態になると、自分の心がすさんでしまいますし、周りも応援してくれません。松下幸之助さんのように、あるものを活かしていくということをしないと、自分の心が豊かになっていかない。
周りの皆さんから応援してもらえるような人間、そして会社になっていかないといけないということを、つくづく感じています。

地元・広島でパン屋を始める

私のこれまでを振り返ってお話しさせていただくのですが、私が修業を終えて広島の三原市に帰ってきたのは、平成2年のことでした。当時は、バブルが弾けたばかりといえども、まだまだ外部環境が良かった。三原市は当時、人口が10万弱でしたが、大手コンビニさんでも24時間開いている店がなく、焼きたてのパン屋さんもないような、そういった時代に1号店をオープンしました。

私の父親は、私が帰ってくるのをとても楽しみにしていたようで「孝雅が帰ってきてくれる」「やる気になって跡を継いでくれる」と周りに言いふらしていたようです。

私の父親は洋菓子屋をやっていましたが、私は地元でパン屋を開く計画でした。そして、そのときに父親に聞かれました。「孝雅、開業資金はいくらかかるのか」と。開業資金は1500万円と見積もっていたのですが、それを伝えると「うちには、そういう金がないから」と言われたんです。そこで初めて財務諸表を見せられました。

私はそれまで、会社の財務諸表を見たことがなかったんです。恐る恐る見ましたら、右の下に▲がついています。つまり、債務超過なんです。
零細企業は2、3年赤字が続くと、資本金が少ないですから、すぐに債務超過になります。ちなみに、この数値は、金融機関が良い融資をしてくれるかどうかのガイドラインになってます。

父親とのボタンの掛け違い

そこで父親が言うわけです。「自分が銀行に行ったらお金を貸してくれないだろうから、お前が借りてこい」「一人で行ってこい。その方が貸してもらえるだろうから」と。
でも、私は職人上がりですから、経営の勉強をしてこなかったし、もちろん銀行にお金を借りに行ったこともないわけです。当たり前ですよね。職人をしていたら、お金を借りることなんてないのですから。
唯一頼りにしていた社長である父親が、銀行に一緒に行ってくれない。私はそのときに「なんちゅう社長だ」と思ってしまったんです。ここでボタンの掛け違いが出てきまして「なら、わかった」と。「もう俺がやるから」と言って、銀行に飛び込んで行きました。

ところが、銀行は簡単には貸してくれません。当然ですよね。事業計画書も何も持っていませんでしたから。事業計画書くらいは持って来い、ということでね。顧問の税理士の先生と、鉛筆なめなめ事業計画書をつくって、何とか1500万円を借りることができたんです。
当時の金利は、7.9%でした。若い方は驚かれるかもしれません。当時は預金の金利が5%の時代です。
その時は「俺が借りたんだ。親に頼らずに」と思いました。でも、後から考えると担保があったんです。債務超過といえども、土地の値段が上がっていたから貸してくれたのですが、当時は「俺が借りた」と思ったんですね。親には世話になっていない。逆に俺がやってると。こういう気持ちでスタートしたわけです。

日本一になるという意気込みで

私は、どうせやるのであれば、やっぱり大きいことをやりたいと、こういうふうに思っていたんです。
パン屋ですから、コック帽をかぶって、真っ白な服を着てパンをつくります。オープンキッチンのベーカリーですから、お客様から何かつくっているところが見えるのですが、白い帽子の上から「日本一」という赤い鉢巻を巻いてパンをつくっていたのを思い出します。
たった1回の人生なんだから、一番になるんだというふうに決めて、本気で思っていたからお客さんにも見てもらうようにしたんだと思います。当時、26歳のころですが、そのくらい意気込んでいました。

ただ、1500万円の借金をしているわけですから、金利で計算してみると、1日少なくとも100人、客単価650円ぐらいはないと、お金を返していけないということが心配でした。当時は1日100人も来てくれる個人店ってあまりなかった。すごく心配しながらシャッターを上げたのを思い出しますけど、開店するやいなや、お客様がどんどんお越しくださるんです。というのも、先ほどお話したように、外部環境がとても良かったわけです。つまりパン屋がない。朝から開いているお店も、コンビニさんもないわけですから。

10年足らずの間で13店舗に

2、3店舗ぐらいの小さいパン屋のときは、個人店だったら日本一の環境ではなかったかなと、今振り返ってもそう思います。
今から30年ちょっと前。儲かって儲かってしょうがない、お金が余って余ってしょうがないわけだから、うちのパン屋で修業させてほしいという人間も集まってきました。就業体制も2交代でいけますから、残業をしてもらうこともない。
だから働く環境も、広島の大手さんくらいに整えて、パートさんの待遇もよくしていこうと。広島県下では一番の時給を出せていたと思います。がんばってくれた人には報奨を出したり、昇格させたり、いろいろなことをやって、「うちのパン屋は日本一環境がいい個人店、パン屋なんだ」と、それが自慢でした。

このいい環境をつくろうと思ったのは、私自身、やっぱり人が好きというのがあったからです。人に、社員に喜んでもらいたい。この思いは、どの経営者でも、どの人間でも、みんなもっています。その優しさは当時の私にもありました。
おかげで、あっという間に借金の返済が終わりました。ありがたかったです。

当時は大きくすることが、私にとって絶対の価値観でしたから、毎年のように工房付きのパン屋を県下に広げていきました。そして10年足らずの間に、13店舗になっていました。

14号店を目前にして

その後、いよいよ14店舗目を、パンの本場・神戸三宮に出すことになりました。神戸三宮は私が修業した場所でもあり、そこに店を出すのは創業当初からの目標だったんです。場所も決めて、地鎮祭の日取りまで決めて、我が社のエースである人間に、店長として任せていました。

そんなときに、地鎮祭で店長から「社長、ちょっと話がある」と言われました。「辞めさせてほしい」というわけです。
いや、びっくりしました。昨日まで「よし、ここで絶対成功しよう」とお互いに話をしていた店長ですから。「おい、お前、何を言っているのかわかっているのか」と何度も聞きました。「今まで夢を語ってきたのは本気だったのか」とか言いながら何度も説得をしたのですが、彼はとうとう私のもとを去っていきました。私や会社から、もう得るもの、学ぶべきものがないと思ったのでしょう。

去っていく彼の背中に、私は「もう二度と顔を見せるなよ。出ていけ」と言いました。そんな人間に、私はいつの間にかなってしまっていたんです。
それもこれも、今思えば、私のなかで経営理念というものが確立されていなかった、というのが原因だったのです。

※続きは以下のリンクからお読みください。
「会社は何のためにあるのか~八天堂代表・森光孝雅氏が語る(2)」
「厳しいときにこそ人間としての真価が問われる~八天堂代表・森光孝雅氏が語る(3)」

森光孝雅(もりみつ・たかまさ)氏 プロフィール

八天堂・森光孝雅

1964年、広島県三原市生まれ。中学・高校時代は卓球に熱中し、県大会3位の成績をおさめる。1991年、祖父の代から続く和菓子・洋菓子店を受け継ぎ、パン屋を開業。経営危機を乗り越え、2008年に口どけのよい「くりーむパン」を開発。スイーツパンという新分野を開拓した。2009年に東京に出店。メディアで取り上げられ、行列のできる店となり、業績を急拡大させた。現在は経営理念の社内浸透を図りつつ、アジアへの進出を加速させている。

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