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石橋正二郎の決断~産業報国精神に根ざした事業選択

2018年5月 7日更新

石橋正二郎の決断~産業報国精神に根ざした事業選択

素材と需要を巧みに結びつける発想と、産業報国的精神に根ざした事業選択で、世界に冠たるタイヤ産業を育てた石橋正二郎。その決断の原則に迫る。

九州の片隅で、わずか十七歳で家業の仕立物屋を継いだ少年が、数十年の実業の時を経て、世界に冠たるタイヤ産業のリーダーになり得たのはなぜだろう。石橋正二郎が行なった経営は、まれなる幸運によって成り立ったわけでも、過去の遺産にすがりついたわけでもない。成長の陰にはつねに挑戦する姿勢があった。

時代の流れを先取りし、見事に筋が通った美しい経営の進化。その過程で貫かれていた決断の原則を考える。

学業を断念、十七歳で家業を継ぐ

石橋正二郎が生まれて初めて自動車に乗り、タイヤの上に身を置いたのは、明治四十五(一九一二)年の東京である。

売上げ好調な家業の商品「志まやたび」の営業のために久留米から出てきた石橋は、赤坂の自動車店で思わず足を止めた。九州にはまだ一台も走っていない輸入自動車が目の前にある。しばらく見とれていると、そこの店主が気前よく、試乗させてくれたのである。その快適さに石橋は感激した。

ただしそのとき、石橋の頭にひらめいたのは、この新しい文明の利器を足袋の宣伝に使おう、ということであった。タイヤ業界への進出など、この頃にはまるで念頭になかった。

石橋は明治二十二(一八八九)年、福岡の久留米で、仕立物業を営む一家の次男として生まれた。従順な性格で虚弱だったが、ずば抜けて成績がよかった。

久留米商業学校に高等小学校三年から進学を許されたほどで、石橋本人も教師も、さらに上の神戸高等商業学校(現・神戸大学)への進学をめざした。しかし頑強に反対したのは病弱な父であった。学校長まで説得にあたったが、父は聞き入れようとしない。進学をあきらめた石橋は、すでに父に代わって家業を取り仕切っていた兄重太郎とともに、実業の道を歩むことになった(のちに兄は地方政治家に転身)。

「私は、一生をかけて実業をやる決心をした以上は、何としても全国的に発展するような事業で、世のためにもなることをしたいと夢に描いていた」(『私のあゆみ』)

果たせなかった進学を無念に思う気持ちはあったが、石橋は冷静に受けとめ、目標を切り替えた。この素直さ、柔軟さは経営にも随所で生かされていく。

明治三十九(一九〇六)年三月、石橋はわずか十七歳であった。

仕立物屋から足袋専門業者へ

ほどなく兄が徴兵によって店を去ったため、店の経営はにわかに石橋一人の肩にかかった。店のすべてを自分なりに眺められるようになると、石橋はいろいろな疑問に突き当たった。

――なぜ仕立物屋は八、九人の徒弟しかいないのに、シャツからズボン、脚絆、足袋までつくるのだろう。

――従来、徒弟たちは仕事を教えてもらうから無給で働くというしきたりだが、不満はないのだろうか。

石橋は、生活必需品としてもっとも需要の多い足袋に専業化し、機械を入れて分業体制にした。同時に、徒弟たちに給料を与え、労働時間を短縮した。

当時の商家では類を見ない大改革を、十八歳の石橋は淡々としてやってのけた。別宅で隠棲していた父は報告を聞いて、「長年の家業をやめた上に、徒弟に給料を払うなんて。タダで使っていたからこそ利益もあったのに」と激怒した。しかし、合理化によって大量生産が可能になったことと、給与制によって徒弟たちの意欲が格段に上がったことの相乗効果がはっきり表れると、父は息子の見識が正しかったことを認めた。

明治四十二(一九〇九)年には年間二十三万二千足を製造、七千円の純益を上げ、その父は大いに快哉を上げたが、年が明けた二月に早世した。石橋の経営は、家業の伝統や従来の雇用形態に捉われない、徹底した合理主義によって進められていったのである。

卓越したマーケティング・センス

順調なスタートを切った商標の「志まやたび」だったが、全国レベルで見ると足袋メーカーとしては地方の一角を占めるにすぎない。石橋は少ない広告費を有効に使う手立てに腐心した。看板も復員した兄と一緒に自製した。

冒頭の自動車との出会いはそうしたなかで偶然もたらされたものであったため、石橋にとって自動車は、宣伝のための利器としか見えなかったのである。久留米に戻ると、すぐに兄に自動車の購入を提案、了解を得ると再度上京し、スチュードベーカーを買った。値段は二千円。当時保有していた機械設備の総額とほぼ同じである。明るいノリで判断した買い物だが、その重みは社運を賭けるほど莫大なものであった。

しかし、自動車による宣伝効果は絶大であった。スチュードベーカーに幌を付け、造花と「志まやたび」の幕で車体を飾り、旗を立て、車上から宣伝ビラを配ると、道行く人は、「馬のない馬車が来た!」と喚声を上げた。大評判となって、結果的に石橋は、「安い広告費だった」と述懐している。

宣伝の次は、価格戦略とブランドの構築である。当時、足袋の価格というのは、大きさ、いわゆる「文」数によって異なり、大きい足袋は小さい足袋よりも高かった。そうした価格の違いによって価格表はいつも手放せない。取引も煩雑である。

市電に乗ったとき、石橋は、市電がどこまで行っても五銭であることに気づいた。そして、足袋との違いは何かを考えた。仮に均一の価格にして、不自由な点はあるだろうか。取引の業務は簡略になるし、有意義なことはあっても別段不利益になることもない。そう判断した石橋は大小にかかわらず、均一価格にした。

同時に、商標についても見直した。「志まや」はあまりにも古臭いと思っていたのである。「旭日昇天」という験のいい言葉から「アサヒ」を取り、"波にアサヒ"のマークをつくって、「二〇銭均一アサヒ足袋」と銘打った。

ちょうどその頃、第一次世界大戦が勃発。経済の不安定から経営の舵取りに苦心する同業者をよそに、アサヒ足袋は年間二百万足の売行きを記録、「志まや」は足袋業界の四天王の地位についた。

そして、大正七(一九一八)年に法人化して、「日本足袋株式会社」を資本金一〇〇万円で設立、すでに業界一位となっていた。

ゴムとの出会い――地下足袋そしてタイヤ

ゴムという素材ほど石橋の人生と経営を変えたものはないだろう。石橋がゴムを求めたのは、従来の足袋を進化させた画期的な発明品「地下足袋」のためである。

通常のわらじは耐久性がなく、一日で一足を履きつぶしてしまう。わらじの補給に費やす金額は、人びとの生活費を圧迫していた。それならば、足袋の下にゴムを付け、そのまま履物にすればよい、という発想である。

最初、石橋は岡山、広島のゴム会社からゴム底を買い入れて加工するという方策を採った。しかし、すぐにこれでは採算が合わないと見切って、社員をゴム会社に派遣して技術を習得させ、自製することにした。のちにタイヤ事業を選択することを思えば、重要な決断であったといえよう。

地下足袋を成功させた石橋は、さらにゴム靴を開発。ゴム靴は高品質のうえ廉価で、日本国内のみならず、中国、東南アジアからインド、イギリス、アメリカ、フランス、ベルギーまで出回った。

タイヤ事業進出を宣言したのは、昭和六(一九三一)年である。当時、国産車の生産はまだ五万台であり、タイヤはすべて輸入品だった。

――いずれ国産車の生産は増大する。それに併せてタイヤの消費も拡大するだろう。その時代に備えて純国産タイヤをつくる必要があるのではないか。

石橋のタイヤ事業選択は、社内においても危惧する声が多かった。技術的課題は大きいし、市場参入への道のりも見当がつかない。しかし、ゴム研究の先覚者であり、九州大学教授の君島武男の「研究費に百万、二百万を投じる覚悟があるならば協力しましょう」との言葉に、石橋は即決した。現在のブリヂストンの発展はこの瞬間からはじまったといえよう。

優れた企業家精神と発想の転換

仕立物から地下足袋へ。地下足袋からゴム靴を経て国産タイヤの開発へ。度重なる主要製品や事業の転換は石橋経営の大きな特徴である。通常、一つの新規事業を手がけるのも経営者にとっては大仕事であろう。石橋の場合、もっとも幹となる事業そのものを時勢に応じて、ダイナミックに展開していく。実に巧みな事業選択といってよいだろう。その決断の要諦は次の三つを基軸として説明できるのではないだろうか。

まず挙げられるのは、類まれなる企業家精神であろう。

それは家内工業からの脱皮や、新素材・新製品の開発、新規事業への参入といった事業への積極的な姿勢にも表れているが、その真価を証明しているのは苦難に耐える精神力である。

たとえば、タイヤの発売にあたり、石橋は、不良品はすべて交換するという「責任保証制」を宣言した。すると返品が相次ぎ、タイヤの在庫が十万本となって千坪の敷地を埋めてしまうという深刻な事態に陥った。

見る間に赤字となり、親しい人たちからも早めの撤退を勧められた。しかしそれでも今後タイヤの需要は必ず伸びるという石橋の信念は毫も揺るがなかったのである。この企業家精神のたくましさは一級品といえよう。

二つ目の要点は、難局を打開できる発想の転換である。

先ほどの返品タイヤの例でも石橋は、転んでもただでは起きないとばかりに、画期的な対策を打ち出した。返品タイヤを使って、荷馬車の車輪をゴムタイヤに替える案を思いついたのである。それだと、従来の木製車輪よりも軽く、その分たくさんの荷物を積めるようになる。運送業者はこぞって採用し、早々に返品タイヤの山を解消することに成功した。

こうした強い企業家精神と奇抜な発想の結合が、石橋経営の本質といえそうである。

一見、石橋の事業転換は投機性のある冒険に富んだものに見える。しかしそれは、石橋自身に言わせれば、自分なりの事業観を突き詰めた結果だという。

地下足袋のためのゴム素材が、いつの間にかゴムそのものの大きな可能性によって、タイヤ産業へと繋がる。それは、事業の合理性を追求していくうちに、ある時点で大きな発想の転換がなされ、企業家精神の高揚とも相俟って、事業転換が一挙に決断されるということなのかもしれない。

崇高な産業報国的精神

そして最後に、もっとも重要な要点として挙げておかなければならないのは産業報国的精神の存在である。

その精神が根底にあるからこそ、石橋の合理主義をたんに"儲かるなら何でもする"というベクトルとは一線を画したものとしているのだ。

あまり知られていないが、石橋の自動車製造業参入への思いは相当なものであった。自ら製造を志して試作車をつくり、たま電気自動車株式会社を設立、それがプリンス自動車工業株式会社に発展するまで積極的に投資に加わった。しかし、通産省主導による業界再編によって、プリンス自動車と日産自動車が合併するに及んで、あっさりと手を引く。自らの事業として可能かどうか、国のため業界全体のために参入するのが適切かを、大所高所から判断した結果であった。

この例に限らず、石橋は地下足袋にしろ、ゴム靴にしろ、タイヤにしろ、私情に捉われることなく、最大限に社会や国家に貢献するという視点から、事業を選択し拡大発展させていった。趣味の絵画蒐集においても、ブリヂストン美術館を設立して人びとに公開した。これも石橋の崇高な産業報国的精神の表れである。

「零細な家業からスタートし、新しい需要の起るような独創的なものに眼をつけ人に先んじ、人の真似をしたのではない。何事を為すにも真心をもって、物事の本末と緩急を正しく判断し、あくまで情熱を傾け、忍耐強く努力したのであって、運がよいとか先見の明があるとかいわれるけれども、世の中のために尽すという誠心誠意こそ真理だと思っている」(『私のあゆみ』)

石橋の経営哲学はこの言に尽きるのであろう。昭和五十一(一九七六)年、八十七歳にて逝去。


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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