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中島知久平の決断~気宇壮大な企業家の心意気

2018年6月 4日更新

中島知久平の決断~気宇壮大な企業家の心意気

軍人-飛行機王-大臣。このキャリアは、何を以て貫かれていたのであろうか。自分の天分を国事に生かした烈士・中島知久平の決断の背景に迫る。

昭和十六(一九四一)年四月、中島飛行機の太田飛行場では技術者たちが四発エンジン機の開発に苦慮していた。折しも東京から大社長(社長は実弟が務め、通称このように呼ばれていた)である中島知久平が見分に訪れ、その前でさまざまな試験が行なわれた。

すべての行事が終わって、和やかな雑談の時間になったとき、若い技術者がエンジン開発のむずかしさを延々と述べ立て、座が一気に緊張した空気に変わってしまった。このとき、中島はやおら口を開いて、次のように言った。「そうか、君は四発エンジンの飛行機の開発で困っているのか。わしはな、将来百発エンジンの飛行機をつくろうと思っているんだよ」。その言葉は、周囲を笑わすと同時に、あらためて気宇壮大な企業家の心意気を感じさせ、安易に障害に屈してはならないという戒めとなって技術者たちの心に響いたという。

ただ当時、すでに中島は政党の総裁でもあった。そうすると、経営に復帰するのか、政治家のままオーナーとして指導するのか、その真意はどこにあったのか。馬賊を志し、軍人となり、飛行機王と呼ばれ、大臣にもなったキャリアは何を以て貫かれていたのであろうか。

中島知久平の不思議

一人だけのリーダーシップで産業を創造し牽引した――語弊があるのを承知で言うならば、徒手空拳で独立した中島知久平にはそんなイメージがある。それだけ中島には、強い企業家精神が宿っていたのであろう。

ただ中島は行跡、キャリアからすれば不思議な人物である。家出をしてまで軍人を志し、その軍人を辞めて企業家となり、またその事業を捨てて、政治家に転身する。しかも一政治家の域を越え、大臣、政党党首にまでなってしまう。猪突猛進的なのか、深慮遠謀を企む策略家なのか、表面上捉えにくい。

さらに時代性を抜きに中島を評することもまたむずかしい。当時の飛行機はすなわち軍用機である。中島飛行機といえば陸軍の一式戦闘機(通称「隼」)が有名だが、三菱設計の「零戦」も中島飛行機がもっとも大量に生産した。太平洋戦争期間中の中島飛行機製作所の生産機体数は一万九千余機(創業から閉鎖までの生産機体数は約二万六千機)で、三菱重工業の一万二千余機を大きく上回り、日本最大であった。

中島飛行機の成長要因は、軍需の後押しがあったこと、そして中島もまた軍需を予測して対応したことにあったといえる。いずれにせよ軍とともに中島飛行機は栄え、滅んだのである。このことも、中島の評価を複雑にしている。A級戦犯に指定されたこと(のちに解除)が、世間の評価を低くしたことは否めない。

こうした中島の悲劇性に対する遺憾の思いからか、中島に関する伝記、評伝においては、ナポレオン、西郷隆盛と比肩し得る英雄的要素を持った人物であり、なおかつ相当な見識者であるとして、その再評価を求めているものが多い。

無鉄砲さにひそむ戦略的思考

中島は明治十七(一八八四)年、群馬県新田郡尾島の農業父粂吉、母いつの長男として誕生した。小柄ながら腕力があり、相撲が強かった。しかし、いじめも自慢もしなかったので皆から親しまれて、「知久平ヤン」(ヤンはこの地方の愛称のつけ方)と呼ばれ、それがなまって "チッカン"と呼ばれた。十二歳の中島少年の夢は、満州に渡って馬賊になり、ロシアに攻め入ること。日清戦争後、三国干渉によって日本がロシアから圧迫を受けた時代の趨勢に影響されてのものだった。

「軍人になりたい!」という進路も、そうした意識が選択させた。ところが、障害が生じた。中島の祖母セキは、「農家の長男は農家の仕事を継げばよい」という保守的な考え方で、軍人になるには必須の中学受験に真っ向から反対したのである。セキは旧家のゴッドマザー的存在で、家人のだれも逆らうことができなかった。それゆえに中島は家出を決断する。

表面上素直に引き下がっていた彼は、明治三十三(一九〇〇)年四月、神棚にある一升枡の中にあった藍玉の売上金を持ち出し、東京へ遁走する。同郷で軍人になっている知人を訪ね、独学で検定試験(専検)を受け、苦学を断行する旨を打ち明けた。実家は大騒ぎとなったが、とりなしを知人に頼み、中島は一度も帰郷することなく以降二年間、受験勉強に精を出すのである。

もう一つ中島の人間性を示すエピソードは、出奔する前の十六歳の頃、泥棒を撃退した事件である。両親が不在の夜、家に金銭目当ての賊が入った。気配に気づいた中島は、寝ていた祖父母や幼い弟たちを起こさないように身支度し、長押に掛けてあった先祖伝来の宝槍を取った。そして、茶の間で物色している賊に近づき、「コラッ!」と一喝した。度肝を抜かれた賊は、思わず目の前の階段を駆け上がり、物置である中二階で立ち往生してしまった。槍を構えて凄みをきかせているところに、両親が帰ってきて、父の粂吉が、「何をしている!」と尋ねると、中島は平然と、「泥棒が中二階に逃げ込みました」と答えた。

興味深いのはその後の粂吉の行動で、彼は「あ、そうか。よしよし」と言って外へ出ると、ふたたび戻って階段の下から、「泥棒さん。窓に外から梯子をかけてきたから」とやさしく声をかけ、「知久平、もう遅いから寝るべえ」と寝室に入ったという。粂吉も並はずれた神経の持ち主だったといえよう。

この二つの話から、中島が決断力と勇気の持ち主であることがわかる。ただ、それだけではない。家出後の東京暮らしではこんな裏話がある。経済的にかなりの耐乏を余儀なくされたが、中島はけっしてアルバイトをしなかった。夜は人力車夫をしたという俗説があるが、中島はそういう苦学は非能率的だとして、勉強以外しなかった。神棚から失敬した持参金を倹約してそれだけを使ったという。つまり、当初から当座の金ではなく、あえて大金をつかんで家を出たのである。

父粂吉は中島の家出を知って動転したが、すぐに冷静になり、「チッカンは只者ではなかった」とその行動に理解を示した。おそらく、中島は祖母セキに頭が上がらない父の立場を察し、ひそかに父の理解を得られる確信を持った上で、すべて計算ずくで家出をしたのであろう。このように中島には、優れて先を見通す力が具わっていた。

粂吉は中島の行動を支持すると、逆に積極的に助言を惜しまず、当初、陸軍士官学校志望だったのを、島国日本の国防上、海軍の重要性を主張し、海軍志望に転向させた。

結局、中島は海軍機関学校の受験に成功する。

すべては飛行機のために

飛行機への思いは、機関学校二年次に生じた。直接的には、ロシア征伐のために大陸に渡って馬賊となるといういささかヒロイックな夢が、日露戦争の終結によって消失してしまったことがきっかけであった。対ロシア勝利に浮かれた世間とは対照的に、目標を失って中島は茫然としていた。そんななか、飛び込んできたのが明治三十六(一九〇三)年に世界中に伝わったライト兄弟の飛行機初飛行のニュースであった。飛行機という利器は中島の興味を大きくかき立てた。以降、あらゆる機会を捉え急速に知識を吸収していく。そして、中尉任官時(明治四十二〔一九〇九〕年)にすでに、「飛行機の時代が来る」として、飛行機による爆弾投下・水雷攻撃が戦略の主流になると主張した。太平洋戦争時の戦法を二十年前に予見し、これから日本は飛行機の国内生産を拡大しなければならないと確信するに至ったのである。

目標が定まると、その実現に向けて、中島はすべての努力を飛行機研究に費やしていく。ドイツの雑誌を参考に鷲の飛行法の研究をはじめる。海軍士官の任務に就きながら、堂々と、軍費を軍艦に回さず飛行機開発に割くべきだと上官に訴える。同僚の、「上層部の決定に対して、生意気をいうべきではない」との忠告には、「大なる道徳を為すには、小なる道徳は無視してもよいと思う」と答える始末。

乗艦していた巡洋艦「生駒」がイギリスに派遣されると、中島は本来の任務を放棄し、一人フランスの航空界の視察を申請。ゴリ押しで視察すると、またその見聞をもとに、「飛行機が戦艦を雷撃して沈没させる時代が来る」と吹聴した。こうして、一機関中尉でしかない中島は海軍内で、誇大妄想の飛行機狂として有名になった。しかし、上層部もそうした認知によって、中島を飛行機研究に近づけさせたのは言うまでもない。

軍用気球の研究への参加を命じられると、飛行船の操縦を習い、日本で二人目の操縦に成功。明治四十五(一九一二)年に、海軍最初の航空研究機関である「海軍航空術研究委員会」が発足すると委員に選ばれ、アメリカへ研究派遣を命じられる。 

ところが、帰国時にその行動がまた問題になった。中島は飛行機の製造・整備の研究を使命として渡米したのに、勝手に操縦免許(日本人で三人目)を取得して帰国したからである。上官の詰問に中島は、「製造の研究をすればするほど、飛行士の知識が必要だと気づき、自分が操縦できないものをつくるのは無責任だと思ったのです。本来の任務ももちろん遂行しております」と答えている。

以降、国産機開発に携わることができた中島だが、その開発体制には不満だった。海軍の主流は依然伝統的な大艦巨砲主義に固執し、飛行機への理解は低かった。それに、所詮軍部も官僚の巣であり、物事を創造する発想に欠けていた。

企業家・知久平の本領

中島が海軍を辞め、「飛行機研究所」を興したのは大正六(一九一七)年のことである。軍人より企業家を優先した一大決断であった。彼のキャリアはそのまま所属していれば海軍中将の地位は確約されていた。それを放棄するという志を理解してくれる人が軍部におらず、退役には応分の懲罰処分を求める声も上がったという。それに本来慣習として、海軍は病気以外の退役を認めていなかった。そのために、彼はあえて花街で遊び、素行を悪くして辞めさせられる努力までした。

中島が民間企業による飛行機製造を決意した最大の理由は、生産性の高さである。海軍当局者に挨拶状として送った「退官の辞」は、勇壮の気に満ちた名文だが、そこに中島はこう書いた。

「欧米に比べて我が海軍航空界の進歩は、遅々たるもので、その原因は製作が官業であることに由来する。即ち民営においては、一カ年に十二回の改革を行ない得るも、官営にては、一回にすぎず。欧米の先進諸国が民営で飛行機を製作するのは、この理由による」

ただ、このように雄々しく船出した中島飛行機製作所ではあったが、当初は苦労の連続であった。先にも述べたように、軍が積極的に支援してくれたわけでもなかった。

そうした苦境にめげず、資金も、人材も独力で開拓したわけであるから、中島には企業家としての資質が充分に具わっていたといえよう。

こんなエピソードがある。一つは飛行場用地の取得の話である。広大な敷地を中島は故郷群馬と埼玉の境界線上にある利根川河川敷に求めた。ところがその大部分は両県の県有地だった。中島は東北帝大の機械科にいた弟に設計図を描かせ、両県の村に交渉、借地料を自ら払うとして貸与を申し出る。埼玉県の村の了承を得て、続いて群馬県と交渉。このとき、生まれ故郷の群馬の尾島町は同郷の誼で、無償で貸してもよいと申し出てくれたのに、中島はそれでは公平ではないからと断った。

また大正八(一九一九)年、トラクター式四型機の飛行成功によって、陸軍の受注を得て事業の見通しが立つと、資金難にもかかわらず、アメリカ製の発動機百台を百五十万円で購入してしまった。当時の総理大臣の年棒が一千円であることを思えば、途轍もない額で、出資者から非難の声もあったが、二年後、軍の大量受注に見事に対応できた。

このように、中島は、ある種の美学を持ち、なおかつ先見力に秀でた企業家であったことがわかる。ついでながら、中島は企業家から政治家に転身したことにより、金権的なタイプの政治家で、その潤沢な活動費も中島飛行機から出たと見られたが、実際はそうではない。彼の活動費はすべて株などの投資活動の見返りで得たもので、事業で得た金を事業以外の用途で使うということはなかった。

自分を客観視してキャリアデザイン

さて、中島はのちに政治家へと移るのだが、その真意も含め、人間中島の本質はどこにあると考えればよいのだろう。ここでは二つの点を強調したい。

一つは、すべての源泉は愛国心だということである。目標に対して的確な手を打つ中島だが、一方では唐突ともいえる転身を見せる。事業が軌道に乗ってわずか十年で、衆議院議員となったのはなぜであろう。「馬賊―軍人―飛行機製造―代議士」とは、ロマンあふれるものだが貫かれているものがある。それは、今、日本社会で問題視されている"愛国心"にほかならない。軍人であり、軍用機を製造した点で、現代の視点から見れば、国粋主義者的経歴と見られやすい。しかし、イデオロギーによるものではなく、中島の場合、常に現実の国益を追求したという点で、純粋な愛国者であったことは間違いない。すなわち、軍人、企業家、政治家という転身は、明日の国事のために自分をもっとも生かすキャリアにこだわるゆえのことで、過去のキャリアにこだわらないからこそ、成し得た軌跡なのである。

二つ目は、本質志向であることだ。航空産業の成立は、技術の融合、巨大な資本、政治性もからむ点、難度が高い。それを一士官から独立して実現した中島の業績は、現代の同業界の現況を見ても信じられないほど大きな成果であったといえよう。いわば卓越したプロジェクト達成能力があったと考えられる。それを導いたのは、先の家出中の勉強法ではないが、目的に即した学習発想ができたからであり、もっと抽象化した表現をすれば、"何をすれば、何ができる"という本質をつねに志向し把握する力に優れていたからではないだろうか。

中島は代議士になると、自身の修養のために、政治・経済・哲学に関する四万六千冊の洋書を購入し、スタッフに翻訳や講義をさせた。これをいわば自らの最高の学習法として知識の吸収を図ったのである。

また、中島が超人的な予言者だったのは有名である。主だった例には次のものがある。

(1)ソ連の満州侵攻を予言
日ソ中立条約により不信行為はないと信じていた関係当局に対し、「ドイツが降伏すればソ連は必ず満州に侵攻して日本を撃つ」と進言していた。

(2)日米開戦を予言
太平洋戦争が開戦する三年前にその可能性を危惧し、論文を書いて知人に配布していた。

(3)東京大空襲を予言
昭和十七(一九四二)年四月十八日、米軍機B25により初の本土空襲を受けた。空襲恐れるに足らずという世評に、中島は「東京は一年後、焼け野原になる」と明言。武蔵野に別荘を設け、一トン爆弾にも耐えられる地下防空室をつくった。「慌て者の中島」と揶揄する人もいたが、中島の言葉が現実となった。

このほか、日本の敗戦時期、米ソの核開発競争、また自らの死期さえ予測した。このことも広範な知識と、本質的な思考法からはじき出した高い見識だったのかもしれない。

中島は天性の企業家精神に満ちた人物であった。考えようだが、その本分と愛国心に従ったがゆえに、逆に企業家としては一時期にとどまったといえるのではないだろうか。

中島知久平の略年譜

1884(明治17)年  1月1日に、中島粂吉、いつの長男として誕生
1903(明治36)年 海軍機関学校入学
1909(明治42)年 機関中尉に任官
1911(明治44)年 10月27日、日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)、大尉に昇進
1912(明治45)年 6月、海軍大学卒業、7月アメリカに出張、当地で飛行士免状取得(日本人で3番目)
1916(大正5)年 ヨーロッパへ航空事情の視察
1917(大正6)年 海軍を退官、群馬県太田に「飛行機研究所」を設立
1919(大正8)年 「中島飛行機製作所」に改称、陸軍から20機を受注
1930(昭和5)年 衆議院議員選挙に当選
1931(昭和6)年 所長を弟喜代一に譲る
1938(昭和13)年 鉄道相に就任
1939(昭和14)年 所属していた政友会が分裂、政友会革新同盟の総裁に就任
1941(昭和16)年 中島飛行機の一式戦闘機「隼」、陸軍に正式採用
1945(昭和20)年 終戦直後の東久邇内閣で軍需相、商工相に就任。GHQによりA級戦犯に指定
1947(昭和22)年 A級戦犯指定解除
1949(昭和24)年 10月29日、脳出血にて急死


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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