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武藤山治の決断~「女工哀史」の職場を「天国」に変えた「温情主義経営」

2019年8月13日更新

武藤山治の決断~「女工哀史」の職場を「天国」に変えた「温情主義経営」

"女工哀史"の時代にあって、その職場を"天国"に変えた「温情主義経営」の信念とは?傾いていた紡績会社を活性化し、のち社会正義の実践のため政治家に転身、闘うヒューマニストとして最後は凶弾に斃れた武藤山治の純粋なまでの経営手法の背景に迫る。

鐘紡に入社した若き支配人・武藤山治は、自社の紡績工場で出るくず糸が、ライバル企業の三倍に上り、多額の損失に繋がっていることを知り、監督者に注意を促した。監督者は女子工員を叱りつけ、くず糸はすぐになくなった。

喜んだ武藤だったが、あとになって減ったと思われていたくず糸が彼女たちの便所に山積していることに愕然とする。厳しく叱責されるつらさを逃れるため、くず糸を隠した女子工員たちのいじらしさに心打たれた武藤は、人間らしい情愛に満ち、なおかつ効率的な工場経営のあり方を模索しはじめた。「温情主義経営」のはじまりである。

傾いていた紡績会社を活性化し、のち社会正義の実践のため政治家に転身、闘うヒューマニストとして最後は凶弾に斃れた武藤の純粋なまでの経営手法の背景には何があったのだろうか。

『女工哀史』の時代

日本の近代化を牽引した紡績業は、欧米先進国の技術を取り入れ、急速に成長した。その急成長を底辺で支えていたのが、農村から低賃金で雇われ、劣悪な労働条件のもとで働いた女子工員たちの存在であった。その悲惨さは細井和喜蔵が著した『女工哀史』に詳しい。二十四時間操業の中、ろくに休憩も与えられず、逃亡すれば懲罰が待っていた。過度の労働と衛生環境の悪さ、支給される食事の栄養事情、何を取っても酷いもので、まさしく彼女らは近代資本主義発展の捨て石だった。

こうした非人間的な環境を遺憾なものとして、果敢に経営改善に取り組んだ最初の経営者こそ武藤山治であった。今でいうES(Employee Satisfaction=従業員満足度)に目覚め、それを確立することで実績を上げた先駆者といってよい。

武藤は類まれなヒューマニストで、そのエピソードには事欠かない。次のような話がある。

鐘紡の支配人になって間もない頃、人力車に乗って出勤途上にあった武藤の視界に、鼻緒の切れた下駄を持ち、裸足のまま工場のほうに走る少女の姿が入ってきた。「待ちなさい」と声をかけ、「おまえは紡績工場へ行くのだな」と尋ね、「はあ」と怪訝な顔をしている少女に、「乗っていきなさい」と人力車を譲り、自分は弁当を小脇に抱えて歩いた。翌日、その少女の父親が礼を述べに来たと聞いて、武藤はうれしそうに笑ったという。

また工場内で操業中に気分が悪くなった女子工員を、男性用務員が背中に負って病室に行くところを見かけたときのこと。武藤はすぐに責任者を呼んで、「女性の病人を男性が背負っていくのははなはだ不都合だ」と注意した。そして机上の紙に自ら病人を乗せるための自転車の絵を描き、さらに店の住所まで書いて、立ちつくしている責任者に、「これを買っておいで」と言った。セクハラ対策の走りとでもいおうか。

あるいは、女子工員が病で倒れ、その親が見舞いに来たと聞くと、往復の旅費を出してやったこともあった。こうした濃やかな気遣いを武藤はもっぱらポケットマネーから出していたので、給料は毎月残ることがなかったという。

人間・武藤の原点

このような武藤の人間性はどのように培われたのであろうか。慶応三(一八六七)年、岐阜の富裕な農家佐久間国三郎とその妻たねの長男として生まれた武藤山治は、恵まれた少年時代を過ごした。佐久間家は地元では名士として知られ、祖父は村に尽くした功によりその死去においては村葬をもってねぎらわれた人物であった。父国三郎もまた篤行の人であった。邸内に図書館を建てるほど好学だった国三郎は、山治をケンブリッジ大学に留学させようという志を持ち、山治もまたそれを望んでいた。

母の証言によれば、少年山治は不実不正を嫌う資質が幼くしてあった。ある年の村祭りの日、国三郎が弟を連れていくこととし、山治に留守番を申し付けたことがあった。その労を慮って国三郎が余計に小遣いを与えようとすると、山治は、「私だけ余分に頂戴することはいけません。どうか兄弟皆平等にしてください」と答えたという。すでに将来の片鱗を示していたといえる。

人生の変転が起こったのは明治十四(一八八一)年のことだった。この年が、経済的に平穏無事に終わっていたら、武藤は念願の英国留学を果たし、好きだった文学を学び、文学者としての人生を歩んだかもしれない。しかし、時の首相松方正義が行なった極端な緊縮政策(松方デフレ)によって、生家の資産価値が下落、英国留学の夢ははかなく消えてしまったのである。それでも、福沢諭吉の『西洋事情』を読んで感激した国三郎が、十四歳の武藤を慶應義塾に入れたというのは、当時の教育事情を考えれば著しく恵まれていたというしかない。

慶應義塾を卒塾後、武藤は米国への留学を決意する。結局海外への憧れを断ち切ることができなかったのであろう。生活は苦しく、見習い職工、学校の用務員といった仕事をしながらの学業であったが、米国の自由と文化、資本主義を思う存分体感した。

帰国後、米国で見知った新聞広告取扱業をはじめ、横浜ジャパン・ガゼット新聞社の記者、東京イリス商会社員と、米国留学経験が生きる外国企業に就職する。

しかし、武藤の人生を大きく花開かせたのはやはり慶應義塾での人脈であった。福沢の甥、中上川彦次郎が低迷していた三井財閥の改革を担って、広く人材を求めた際、武藤にも声がかかり、三井銀行に入社。実力を認めた中上川が、武藤を三井傘下にあった鐘紡の再建に派遣したのは明治二十七(一八九四)年、武藤二十八歳のときであった。

「温情主義経営」の実態

鐘紡社史によれば、この明治二十七(一八九四)年から、社長を辞する昭和五(一九三〇)年までの三十六年間を「武藤山治時代」としている。この間における鐘紡の発展は売上げ、利益、資産、配当に至るまで数倍から十倍にまで拡大する。その成長の原動力となったのは、時代を先取りした合理性かつヒューマニズムに満ちた「温情主義経営」と呼ばれるものだった。

彼が発案した福祉の整備は三十九件に及んだが、主だったものには次のようなものがある。

1)乳児伝育所の設置
一九〇二(明治三十五)年、武藤が最初に手がけた福利厚生施設。乳飲み子を持つ女子工員のための保育施設で、仕事の合間に伝育所に来て授乳ができるという、きわめて斬新な取り組みであった。

2)「鐘紡共済組合」の設立
友人からもらった冊子に載っていたドイツのクルップ製鋼会社の従業員福利制度に倣って発足させたもので、病災救済機関として職工員の優待に画期的な制度となった。現在の健康保険制度のさきがけといわれるこの組合の定款は、健康保険法制定の際にもその骨子とされた。

3)「注意箱」制度
米国出張中の役員が送ってきた雑誌に、オハイオ州現金計上機製造所の頭取が、三千人の職工員に呼びかけて社内提案制度をつくり効果を上げたという記事があり、これを読んで感銘を受けた武藤が導入した。実施の際、どんな低い職位の者でも自由に提案できなければならないとして、注意箱に対して上役が下位の者に干渉を加えることには懲罰解雇を以て報いる、と徹底した。

4)社内雑誌の刊行
職工員の慰安となるものとして、『鐘紡の汽笛』『女子の友』といった雑誌を発行した。『鐘紡の汽笛』の前身であった『兵庫の汽笛』はわが国初の社内報とされている。

こうした福祉に関するもののみならず、経営においても「科学的操業法」(明治四十四〔一九一一〕年)、「精神的操業法」(大正四〔一九一五〕年)、「家族式管理法」(大正十〔一九二一〕年)といった独自の指針を次々に表明した。いずれも労働者本位に立ちつつ合理化を促進しようとするものであった。

「科学的操業法」は、当時の日本で導入されながらも、あまり浸透していなかったテーラーの科学的管理を実際に生かそうという日本でも先駆的な試みで、仕事の段取りを分解し、ムダ・ムラ・ムリを発見して改善しようと宣言したものである。「科学的操業法」が仕事の量を合理化するのを目的としたのに対して、「精神的操業法」は仕事の質、つまり従業員の心の持ちよう、集中力の大切さや管理者の部下に対する責任を問うた。また「家族式管理法」は、「従来日本ノ家族制度ノ善良ナル部分ニ則リ、会社ノ管理組織ヲ一家族ノ如ク協和的ノモノタラシメントスルニアリ」として、社員相互の理解と協力を訴えるものであった。武藤は自分の考えをどんどん発展させ、その都度発表していった。

こうした人間味ある武藤の労務管理手法は、"女工哀史"の環境から女子工員の"天国"といわれるまでに労働環境を変えた。新式機械も導入して、それらの相乗効果によって鐘紡は目ざましい成長を遂げた。

闘うヒューマニスト

こうした一社の躍進は業界に思わぬ軋轢を生んだ。高賃金で環境のよい鐘紡の評判を聞いた他社の女子工員が、脱走して鐘紡に殺到したのである。この事件は業界のみならず政治を揺るがす事態にまで発展した。背景として、当時大阪の紡績業界では中央綿糸紡績業同盟会というものが結成されており、「職工引抜防止協定」をつくって業界の職工員不足を互いに保全するように配慮をしていた。ところが同盟会に対し、従来鐘紡は工場が大阪ではなく兵庫にあったことから加盟を拒んでいた。そうした微妙な状況のなか、鐘紡は脱走してきた女子工員を迎え入れたので、同盟会側は強く反発したのである。

当時の社会情勢によるが、このときの鐘紡と同盟会の軋轢は現代では考えられない激しさであった。新聞紙上で弾劾広告を掲載する程度では収まらず、取引商人や運送会社に鐘紡との取引をやめるよう圧力をかける。はては暴力団を雇って、鐘紡の操業を妨害、従業員にまで危害を加えるような事態になった。武藤自身も刺客に狙われた。

この事態に鐘紡の監理の大元であった三井銀行の中上川彦次郎は激怒し、同盟会所属の会社へは一切の融資を拒絶するよう指示、ここにおいて紡績業界の紛争は政治問題と化した。二カ月後、日本銀行総裁の岩崎弥之助の仲裁によって和解するが、こうした経緯をふりかえっても、武藤の「温情主義経営」は業界においていかに大きなインパクトを与えていたかが窺えよう。中上川が武藤の手法を首尾一貫支持したことは、武藤には幸運であった。

信仰か合理主義か

仏のような一面、火の玉のような激しさを秘めた熱血漢、それが武藤のイメージである。武藤が「温情主義経営」を強烈な信念のもとに実践していった背景には何が挙げられるであろうか。

一つ明らかなのは、武藤の生家が日本では稀なリベラルな家庭であったことであろう。そのことに加えて、先に述べたように武藤の父、祖父ともに村内の篤行の士で、それぞれが日蓮宗、キリスト教への信仰心が篤かったことも、武藤の人間性に大きく影響していたと思われる。武藤自身は長らくキリスト教信者ではなかったが、死の直前にカトリックの洗礼を受けた。「温情主義経営」を宗教心の発露と捉えることはできないが、キリスト教的博愛心は自らも理解し、「温情主義」を後押ししていたと考えても間違いではないだろう。

それとともに、資本主義の本場米国での見聞がある。米国留学時代の記憶として、武藤はこんな一文を書いている。

「私が米国人の家庭に働いて感じましたことは、主人や主婦は勿論、家族全体の召使に対する態度が、優しく上品で言葉遣ひも極めて鄭重であることでした。何事を言ひ付けるにもplease(どうか)と言ふ言葉を必ず初めに使ひます。子供など主婦以外の者は日本のように矢鱈に召使に物を言ひ付けませぬ。何か言ひ付ける時には命令詞は使ひませぬ。必ずWill youと言ふ言葉を使ひます。これは使はれる身になると誠によい感じのするものです」(『私の身の上話』原文ママ)

このように日本では上流育ちの武藤が、米国においてまったく違う視線で社会を見たという事実は大きかった。ことに、米国社会に浸透しているプロテスタントの倫理と合理主義的精神は、社会観のみならず人生観にも影響を与えたと思われる。

武藤研究においては、こうしたキリスト教との近接と近代西洋文明思想の受容こそ「温情主義経営」の原点と位置づける見方が従来一般的であった。ただ最近の新たな見解のなかには、武藤の「番頭」的役割から来る現実主義的な感覚をより評価しようとするものもある。中上川彦次郎が日本のプロ経営者の先鞭であったように、財閥では資本と経営の機能が分離しつつあった。三井の経営を託されていた中上川がさらに三井傘下の鐘紡再建に武藤を抜擢したという事情をもっと考慮に入れるべきだというのである。武藤の使命は鐘紡のイノベーションであり、管理責任は甚だしく大きい。イノベーションの手法が「温情主義経営」というきわめて倫理的な内容ゆえに個人的信念によるものと捉えられがちだが、信条としてヒューマニズムによっただけではなく、人材の活性化という現場主義的対応だったということである。すなわち人材をコストと見るのではなく資源とするイノベーションだったという見方もできるわけである。

実業者に必要な政治観

武藤は稀有な情熱をつねに社会の良化に捧げ続けた。武藤に学ぶことといえば、その志の大きさをまず見習うべきであろう。さらに企業家としての人間性を考慮するならば、一つには、とにかくよく働いたこと、勤労の率先者であったことを重視したい。

武藤の座右の銘は、「何人も人一倍の事を為すに非ざれば、一倍の人となること能はず」というもので、己に厳しい一面が窺える。

鐘紡入社間もない頃をふりかえって武藤はこう記している。

「はじめ、四、五年間は一年三百六十五日一日も休まず働き通しました。元日でも事務所へ出たくらいでした。後になって会社の財政も楽になり、せめて日曜日だけは休もうと思って試みてみましたが、はじめは日曜日を休むことは非常に苦痛でありました。日曜日は休むものと考えるようになるまでには相当の年月がかかりました。」(『私の身の上話』原文ママ)

明治人の勤勉には頭が下がる。

また、そのフェアな精神も学ぶべきではないだろうか。鐘紡退社後、実業同志会をつくり政治活動に入った武藤だが、こんなエピソードが残っている。

選挙投票日を控え、選挙運動にいそしんでいた武藤がある所で演説を終え、路地に出たとき、曲がり角に自分と相手候補の立て看板がいずれも風にあおられて倒れているのを見た。付き人が走りよって武藤の立て看板だけを立てたところ、すかさず、「もう一つのも立てておきたまえ」と注意したという。「汝の敵を愛せ」というのも武藤の愛した言葉であった。昨今、目前の利益のためにはコンプライアンス(法令遵守)をおろそかにする経営者が多いが、彼らの目には武藤の潔癖さは信じられないかもしれない。

また、当時としては実業家から政治家へ転身した数少ない一人であった武藤は、実業家の政治意識に対して、同志会発足時にこう述べている。「実業家も政治的覚醒が必要である。また、実業家の主張はたんなる哀訴嘆願の運動のみにては到底その目的を達成することができない」。政治と経済の然るべき関係は時代によって一様に論じられないが、実業家の問題意識としてはつねに喫緊の課題として重要であろう。

武藤の最期は劇的である。昭和九(一九三四)年、北鎌倉の別邸を出て間もなくの路上、近寄ってきた男に狙撃され死亡する。生活苦にあえいでいたという犯人は、本人も自決したため遭難の真相はわからないままとなった。混濁する意識のなかで、犯人の死とその生活苦を知らされた武藤は、「あの男のあとをみてやれ」と、自分を撃った男の遺族の面倒まで口にしたという。闘うヒューマニストはそれらしい結末を与えられ、最期まで見事であった。


渡邊 祐介(わたなべ・ゆうすけ)
PHP理念経営研究センター 代表
1986年、(株)PHP研究所入社。普及部、出版部を経て、95年研究本部に異動、松下幸之助関係書籍の編集プロデュースを手がける。2003年、大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程(日本経済・経営専攻)修了。修士(経済学)。松下幸之助を含む日本の名経営者の経営哲学、経営理念の確立・浸透についての研究を進めている。著書に『ドラッカーと松下幸之助』『決断力の研究』『松下幸之助物語』(ともにPHP研究所)等がある。また企業家研究フォーラム幹事、立命館大学ビジネススクール非常勤講師を務めている。

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